真実の愛と共に生きるといって去っていった妻は
お読み下さりありがとうごさまいます。
誤字脱字などございましたらごめんなさい。
最後まで恋人同士のように仲の良かった両親が、天命を全うした。
母の葬儀を待てず、父はその後を追うようにして旅立っていった。
両親の願い通り、青い湖が見渡せる丘に埋葬し――墓石に刻まれた文字の下に、二人の『対の指輪』を嵌め込んだ。
……その夜、夢を見た。
それは父と母の遠い記憶であり、それと同時に、その時間を生きていた俺自身の記憶でもあった。
❖
チュエル伯爵家の次期女伯爵として、大切に育てられた一人娘のファビオラ。
そんな彼女の将来の婿として、幼い頃に婚約したのがバーニャック侯爵家三男のディルクだった。
はじまりは政略的な縁談だった。けれど、同い年の二人が惹かれ合うのに時間はかからず、誰もが羨むような仲睦まじい婚約者同士となった。
想い合う二人は成人した直後に結婚し、その一年後に彼女は元気な男の子を出産した。
優しい両親、愛する夫、可愛い息子とともに、ファビオラは幸せな日々を送っていた。
……だが、幸せな時間は長くは続かなかった。
運命が狂い始めたのは息子がつかまり立ちを覚えた頃。ファビオラの両親を襲った不慮の事故が、平穏だった日常を容赦なく引き裂いた。
悲しみに暮れる暇もなく、ファビオラは若くして伯爵位を継承することになった。しかし、知識しか持たない彼女に領地や商会を動かす術はなく、経営は目に見えて傾き始めていく。
事態を打開するため、ファビオラは寝る間も惜しんで連日商会へと足を運んだ。悲鳴を上げる身体を無理やり動かし懸命に目の前の仕事に没頭した。
そんな彼女の姿に応じるように、夫の実家であるバーニャック侯爵家から優秀な人員や支援を得られ、領地や商会は徐々に活気を取り戻していった。
だが、領地や商会が軌道に乗り始めた頃。ファビオラは己の身体に異変を感じはじめる。
続く心身の不調に不安を抱いた彼女は、その救いを医師に求めた。
「大変申し上げにくいのですが……ファビオラ様のお身体は不治の病に侵されています。残念なことに、余命……長くても一年と半年かと―――」
突きつけられた診断結果はファビオラを地獄へと突き落とした。
彼女の身体は現代の医学では決して癒えぬ病に侵されていたのだ。医師の口から発せられたのは、逃れようのない死の宣告だった。
自由を奪われるのが一年後。その後、命が尽きるまでは半年もない――。
そのあまりに非情な結果に、彼女の視界からはすべての色が消え失せた。
同時に、愛する夫と息子の顔が脳裏をよぎる。
――二人を置いて先に逝かなくてはならない。その事実が心臓をギュッと掴まれたような激痛となって全身を震わせた。
毎晩寝静まった寝室で声を押し殺し独り涙を流しながら考え悩み抜く。
――自分の死によって夫と息子にいつまでも悲しみを引きずってほしくない。そのためには、彼らの前から去らなければならない。
たとえ傍にいられる時間が限られていても、最後のその瞬間まで……自分なりのやり方で彼らを愛し抜こう、と。
両親が遺した商会をようやく立て直せるというところまできたのに。残された時間はわずかしかない。動けるうちに商会を完全な軌道へと乗せてから、全てを残し愛する夫と息子の前から静かに消えよう、と。
……絶望の果てに、そう決断したのだ。
「……何と言われても……これから先の未来を、私は真実の愛と共に生きていきたい」
ファビオラはそう言って、夫であるディルクに離縁を切り出した。
伯爵家の全財産を置いて一年後に出ていく。自身の名を記した離縁状をそっと夫に差し出し、彼女はそう毅然と告げた。
数日前までは、自分がこんな言葉を愛する夫に告げることになるとは思いもしなかった。
だが、悩み抜いた果てに彼女が導き出した答えはこれしかなかったのだ――。
ディルクは首を振り続けた。だが頑なに別れを請う妻に、ついに根負けし……震える手でその書面に自らの名を書き入れた。
お互いの名が離縁状に記されると、ファビオラは彼を私室に入れることはなかった。家にいるときは、なるべく夫と息子に会わぬようダイニングでの食事も避け、ほとんどの時間を私室で過ごすことにした。
同時に日を追うごとにディルクが煽る酒の量が増えていく。
声をかけたくても、彼女は夫の視界に映らぬ場所で手を固く握りしめる。彼の姿に胸を痛めながらも、神に祈るしかできなかった。
そんな中、病は静かに進行していった――。
半年後、手足に痺れが生じ追い打ちをかけるように耳も聞こえづらくなる。
やがて、視界にまで異変を覚え始めた頃。夫はあろうことか女を家に連れて帰ってきた。
ファビオラは嫉妬に狂い声を荒げそうになるのを必死で堪えた。
だが後日、偶然耳にした使用人たちの噂話で、夫は金で雇った女優に愛人を演じさせていただけだと知る。
ほっと胸を撫で下ろしたものの、同時に自分がいなくなった後のことを考えると新たな不安が影を落とした。
――ディルク一人に、伯爵家を担わせることになる。その負担を取り除くには、彼が新たな伴侶を迎える必要がある。
このままディルクが酒に溺れ続け自堕落な夫となるよりは、早いうちに代わりの誰かを見つけ、睦まじく家を守ってくれる方がまだ救いがある。息子はまだ三歳にも満たない。母親が代わってもすぐに受け入れてくれるだろう。
そう思いながらも心は苦しく悲鳴をあげる。だが、もはや自分にできることは何もないのだと、そう自分に言い聞かせるしかなかった。
時を止める手立てはなく刻は無情に流れていく。次第に視界はぼやけ、全身を苛む痺れは一段と激しさを増してきた。
この家での生活も終わりが近づいてきたと悟ると、ファビオラは私室にあるものを次々と処分した。
そして、伯爵家当主に代々受け継がれてきた懐中時計と自身のすべての財産を金庫に入れて扉を閉ざし、前もって用意していた身の回りの品を一足先に送り出した。
2日後。深夜眠る息子の首にそっと一つの鍵を下げる。その後で、ファビオラは自分のものを何も残さずひっそりと家を後にした。
辻馬車を乗り継ぎファビオラは目的の場所へと向かう。
そこは、初めてディルクとデートした青い湖。彼女はそのほとりに佇む教会を目指した。
身体の機能が衰えゆく彼女は、長い時間をかけようやくの思いでその場所に辿り着いた。
そんな中、教会に着いたファビオラを思いもよらぬ人物が待っていた。ここで彼女の介護を担当してくれるというその女性は、かつて幼い頃に伯爵家で仕えていたメイドだった。
彼女の話によれば、祖母の看取りを終えて医師に挨拶へ向かった先で紹介されたのが、この教会での仕事だったという。
変わり果てたファビオラの姿に、元メイドは瞳に涙を溜めながらも優しく微笑んでその身体を抱きとめてくれた。
教会に辿り着いてからファビオラが病床に伏すまでに、そう時間はかからなかった。
――それから、わずか2ヶ月後。彼女は静かに還らぬ人となった。
∞
目が覚めると、果てしなく長く眠っていた感覚と共にファビオラは体をゆっくり起こした。
辺りを見回すと、彼女は次々と目に映る光景に言葉を失った。自分が目にしたものが、幼少期に過ごした懐かしい部屋そのものだったからだ。
そして全身を駆け巡る不可解な違和感に大きく目を見開いた。
――目が見える。
今、自分の意志で首を動かせていた。
――誰の手も借りず私一人で、
自分の力で体を起こせただなんて……。
恐る恐るベッドから下りたファビオラは、次に自分の姿を鏡に映しだす。その信じられない姿を何度も確かめるように確認した。
……そこに居たのは幼少期の自分の姿だった。
同時に、ノック音の後に朝食の時間だと言って部屋を訪れたのは、最後の時を看取ってくれたはずの彼女だった。信じ難いことに、彼女の姿もまた若返っていたのだ。
さらに、ダイニングでファビオラを待っていたのも、やはり若かれし頃の両親だった。
……なぜか時間が巻き戻っている。
両親との出会いに感動するよりも早く、ファビオラは現実を悟った。
彼女は両親とまたこうして会うことができたことが嬉しかった。だが同時に、また彼らを失う時間が巡ってくるという不安も抱えた。
「おはようファビオラ。今日はバーニャック侯爵家のディルク君が遊びに来てくださるのよ。緊張しないで仲よくしてね」
母親のその言葉に、彼女は眉をひそめた。
今日はディルクと出会って婚約が決まった、あの日だったのだ。
――ということは、また愛する彼と離れなければならないということだ。そう思うと、彼女の胸が締め付けられるように痛んだ。
彼が我が家を訪れるまでの時間、ファビオラは考えた。
本当はまた一緒に生きていきたい。でも、また苦しめたくはない。ならば、同じことを繰り返さなければ、彼を苦しめることがないのではないだろうか。
であれば、私ができることは……今日をもってディルクとは会わないように婚約を断るのが一番なのだ、と。
回帰した彼女はこれから先の未来が最悪な結果になることを知っている。だからこそやり直しのこれからの時間は、別の道へと進むことを選ぶしかなかった。
――なぜ私の時間が巻き戻されたのか。
愛する人と離れる辛さを二度も経験させられることになるとは。あんなに辛い想いを繰り返したくないのに……。
ふと窓の外に目を向ければ、バーニャック侯爵家の馬車が我が家の門をくぐるところだった。
ディルクを乗せた馬車は、まっすぐ屋敷へと向かってきていた。
❖ ❖
ファビオラが口にした「この先は真実の愛と共に生きたい」という言葉に、ディルクは自分の耳を疑った。
――真実の愛とは、巷で流行っている『浮気相手ができたから一緒になりたい』という言い換えではないか……。
ディルクは、妻の愛は永遠に自分だけのものだと信じていた。どんなに大きな夫婦喧嘩をしてもすぐに仲直りし、笑い合えるのが当たり前だった。それだけに、自分たち夫婦にこんな事態が訪れるなどと夢にも思っていなかった。
思えば、義両親が亡くなってからというもの目まぐるしい忙しさに追われ、二人の時間は徐々にすれ違っていった。
妻の負担を少しでも軽くしようと彼は彼女の補佐としての役割を全うし、商会だけでなく領地の仕事にも明け暮れていたのだ。しかし、そのために帰宅するのは深夜となり、顔を合わせられない日が増えていた。
それに、最近のファビオラの様子にはどこかおかしいところがあった。
以前のように笑顔が見られなくなったのは、両親を亡くした哀しみに暮れる暇もなく伯爵家を継ぎ、慣れない日々に疲れ切っているからだとばかり思っていたのだ。
だからこそ彼女が外に男を作っているなどとディルクには到底信じられなかった。
けれども、彼女自身の口から離縁を求められたのもまた紛れもない事実だった。
それからというもの、ファビオラがディルクに見せる表情は一変した。
妻のことなら何でも分かると思っていた。だが、今の彼女のことは全く分からない。なぜなら、自分に向けられたその拒絶のような冷たい瞳を、これまで一度も見たことがなかったからだ。
繰り返される離婚の言葉にディルクは頑なに首を振り続けた。
……だが、彼は遂にその書面に自らの名を書き入れた。
夜寝静まったはずの寝室で、毎晩彼女が息を殺して泣いているのを知っていたからだ。
その隣で寝た振りをしながら彼女が泣き止み眠りにつくまで、ただじっと胸を抉られるような痛みに耐えていた。
ファビオラを愛しているからこそ不幸にはしたくなかった。涙を流す妻をこれ以上追い詰めたくはなかった。自分と離れることで彼女が救われるのならと想いを押し殺し、ディルクは身を引く決断をしたのだ。
書面に名を記したその日からファビオラは私室に籠るようになった。仕事のための最低限の移動を除けば、彼女の姿を屋敷で見かけることはほとんどなくなった。
――もう、自分の姿を見るのも嫌になったのだろうか。そう思うと、ディルクは胸が苦しくて仕方なかった。
いつも家と商会を行き来するばかりの妻が、一体どこでその男と出会ったのか。そんな疑問を抱きつつも、彼女の心が別の男に向いてしまったのは、すべて自分の至らなさが原因なのだと己に言い聞かせた。
だが、日に日に考え直してほしいという思いがディルクを侵食していく。
廊下でファビオラの姿を捉えて声をかけても、素っ気なくあしらわれるだけ。息子の話を持ち出してみても、彼女は無表情で色のない返事だけを残し冷淡に通り過ぎていく。
なればと、酒に溺れた自分の体を心配してくれるだろうか、そう思い不得意な酒を飲み続けてみるが彼女はディルクに一瞥もくれない。
それでも駄目ならと、今度は彼女の感情を引き出すために、女優に金を払い愛人役を演じさせることまでした。
ディルクは彼女の心を取り戻したくて手当たり次第を試みた。だが、何をしても無意味だった。向けられるのは冷たい目だけで軽蔑すらされない。彼女の関心を引くことすらできない始末だった。
夜寝る前にディルクは毎晩彼女の部屋の扉の前で葛藤した。
ノックをしようと、上げた手を握る。だが、『やり直したい』その一言で、これ以上嫌われると思うとどうしても扉を叩けない。かと言って、もし拒絶されて言葉が返ってこなかったとしたら……酒のせいで感情が抑えられず彼女を責め立ててしまうかもしれない。それだけは避けなければ。
そう思うと、握りしめた手をただ静かに下ろすしかなかった。
突然、ファビオラがいなくなった。誰にも何も告げず屋敷から去っていった。
妻の私室に足を踏み入れると、家具以外には何もない。彼女の面影すら残されていない。ガランとした空間には、虚無だけが広がっていた。
「―――……」
その光景に、ディルクの思考はすべて消え去った。
何も考えられず、何を思うこともなく――。
呆然としているところに後ろから掛けられた声で、ビクリと肩が跳ね上がる。
ゆっくり振り返ると、沈痛な面持ちの使用人が『息子の首にかかっていた』という鍵を静かに差し出してきた。
それが、震える手のひらへとそっと乗せられる。
その瞬間、冷たい金属の重みがディルクの感覚を呼び覚ました。
手にしたのは、ファビオラの金庫の鍵だった。
はっとしたディルクは鍵を握りしめて部屋の奥へと足を進めた。
急いで隠し扉を開き、中にある金庫に鍵を差し込む。カチリと金属音が鳴りその重い扉を開いた瞬間、彼の目が大きく見開かれた。
最初に目に入ったのは、押し花で飾られた可愛らしい封書だった。ディルクは唾を呑み、震える手でそれをゆっくり引き寄せた。
封書の中に入っていたのは、伯爵家当主に受け継がれてきた懐中時計と一枚の手紙だった。そこに綴られていたのは、息子に宛てた深い愛の言葉と、それが『18歳の誕生日の贈り物』だというファビオラの思いだった。
他に金庫の中にあるのは、彼が今までに妻へ贈った宝飾品の数々。そして、まとまった現金だけだった。いくら探しても、そこにはディルク宛の手紙は見当たらなかった。
――俺への手紙がない。ファビオラは、俺だけの人生を新たに進むようにと、期待も残さず去っていったのか……。
そう受け止めた瞬間。ディルクの視界に映るすべてのものが無に覆われ、彼の膝が床に崩れ落ちた。
ファビオラがいなくなったことを、ディルクが現実として受け入れるには長い歳月を要した。
焦燥に駆られながらも当主となった彼は伯爵家の仕事を熟し、現実から目を背けるように忙しい日々を送り続けた。
しかし、時間が経つほどファビオラへの想いだけは虚しく膨れ上がっていく。
そうして、ついに寂しさに押し潰されそうになったディルクは彼女の行方を追うことを決めた。連れ戻そうとしたわけではない。彼女が幸せに過ごしているのか、ただそれだけが知りたかったのだ。
だが、あまりにも遅すぎた。月日が経ちすぎた足取りを追うのは容易ではなく、手がかりはほとんど残されていなかった。
――数年後。どれほど時が流れても、この胸の痛みも、ファビオラへの愛も……失くすことはできなかった。
去っていった妻を、ただひたすら探し求めた。
一方で、彼は領主としての義務も忘れなかった。息子が成人するまでの中継ぎとして、家門を大切に守り続けた。
愛する妻の血を引く我が子へ一日も早く爵位を譲り渡すため、その足元に揺るがぬ基盤を築き上げていった。
ファビオラの捜索は何年経っても実を結ぶことはなかった。
いつしか息子は、ディルクの背丈を追い越すほど立派に成長し伯爵家を支える青年となった。
そうして、成人した息子が伴侶を迎えると、すぐさま爵位を譲り渡した。
丁度その頃、ディルクの心身は限界に達していた。積年の無理が祟ったのか、ゆっくりと静養しても身体の異変は治まらず、彼はついに医師に診察を委ねた。
長い診察が終わると、医師は苦い表情で静かに口を開く。
「――まさか、奥様と同じ病に侵されるとは……。しかし、今は特効薬が開発されましたので、薬を飲めば数日で良くなりますよ」
不可解なその言葉に、ディルク首を傾げた。
「彼女も同じ病だった、だと? その言い方では、彼女が発症したときは、まだ特効薬が存在していなかったように聞こえるが」
カルテに筆を走らせる医師に、彼はそう疑問を投げかけた。
ペンをピタリと止め、医師ははっとしたように顔を上げる。
顔はみるみる蒼白になり「――た、他家の奥様と間違えました!」といって、逃げるように診察器具を鞄へ押し込みはじめた。
その慌てた様子に、ディルクの頭の中で警報が鳴り響く。
「ちょっと待て! 話を聞かせてもらう必要があるようだ」
逃げるように扉へ向かう医師の腕を掴むと、ディルクは有無を言わさずソファーへ押し戻した。
重いため息を吐き出した医師は何かを観念したように、隠し続けてきた過去の記憶を語るしかなかった――。
青く澄んだ湖のほとりに建つ古びた教会。その奥にある小さな丘を登った先に……ファビオラの名前が刻まれた墓石があった。
その名前の下に刻まれている言葉を目にしたディルクは、震える指先で文字をなぞりながら、声を上げて泣き崩れた。
『この身が滅んでも、心は永遠にあなたのそばに……』
刻まれた文字の下には銀色に輝く指輪が嵌め込まれている。それは紛れもなく、今もディルクの薬指を飾る指輪と対を成すものだった。
23歳という若さで、すべてを一人で抱え込んで逝ってしまった彼女が、最後に残していった言葉……そこには、彼への愛が刻まれていた。
一人で戦い抜いた彼女の思いに、ディルクは胸が締め付けられた。
なぜ彼女は離婚を切り出したのか。疑問に思いながらも、「この先は真実の愛と共に生きたい」その本当の理由を調べようともしなかった。ただ受け入れただけで、何も見ていなかったことをひたすら後悔した。
ディルクは彼女が眠る墓地の近くにある小さな別荘に移り住んだ。
毎日その場所を訪れ、彼女がいなくなってからの日々を墓石に語りかけた。あの世でファビオラが今度こそ病を克服できるようにと、祈りながら墓石の下の土へと薬を埋め続けた。
――一年後。ディルクは教会の硬いベッドの上にいた。窓の外に墓石の見える部屋で、彼女と同じように病と向き合った。
最期は誰に看取られることもなく、まるで長い旅を終えたかのように静かにその生を終えた――。
∞
ファビオラを見た瞬間、ディルクの脳裏に走馬灯のような膨大な記憶が蘇った。同時に、目の前にいる小さなファビオラにすべての意識が集中し、時間が巻き戻されているのだと直感した。
だが次の瞬間。彼女の口から発せられた言葉に、頭が金槌で打ち据えられたかのような衝撃が走る。
「あなたとは、婚約をしたくない」
――婚約をしたくないとは、どういうことだ。
前回のときは、終始頬を染めて可愛らしく微笑んでくれていたはずなのに。今の彼女は、悲しみに満ちた顔で冷たい言葉を投げつけてくる。
ファビオラに再会できた喜びと、あまりの拒絶の痛みに、ディルクの心臓は激しく締め付けられた。
――どうすればいい。今度は絶対に間違えてはいけない。
ディルクは焦る心を抑え、冷静に思考を巡らせる。そして、ある一つの真実に気がついた。
前回の彼女は、なぜ自分の前から姿を消したのか。
ファビオラは……病で衰えていく姿を見せて悲しませたくない。そして死後、ディルクが悲しみに暮れることのないように。すべては……その苦痛を味合わせたくないからこそ、彼女は一人で消えていったのだろう。
そう思うと、答えはすんなり胸に落ちた。そして確信した。戻ってきたのは自分だけではない。彼女の時間もまた、巻き戻っているのだと。
しかし、その確信はディルクに新たな焦りをもたらした。ファビオラは一度決めたことを最後まで貫き通す。そんな彼女が「婚約しない」と決意したのなら、普通の方法ではその心を動かせない。それをどうやって打破すればいいのか――。
瞼を強く閉じ、打開策を考える。だが、これといった良い案が思い浮かばない。
ディルクの様子に痺れを切らしたかのようにファビオラから「聞こえませんでしたか?」そう問われ、彼はゆっくり瞼を開いた。
「……結論を出すのは、今じゃない」
そう言って立ち上がり、彼女の小さな手を握ると、その場から半ば強引に連れ出した。
両親たちに二人で散歩に行くと伝えた後で、彼女を馬車に乗せる。
重い沈黙が流れる車内では、ディルクは俯いたままのファビオラの手をずっと見つめていた。
二人を乗せた馬車は、思い出の地でゆっくり停車する。
「ファビオラ。着いたよ」
そうディルクが告げると、顔を上げた彼女は大きく目を見開き、車窓の外を食い入るように見つめた。
頑なに閉ざされていた彼女の瞳に、明らかな動揺の光が走る。
それを見たディルクは優しく微笑み、その手を引いてファビオラを馬車の外へと連れ出した。
教会でシャベルを借りてきたディルクは、彼女の前で丘の一角を掘り出した。
彼は確信していた。先ほど彼女に声をかけられて瞼を開けたあの瞬間――自分と彼女の左手の薬指。そこにあるはずのない、うっすらとした銀色の指輪の痕が淡い輝きを放っていることに――。
ファビオラは訳が分からず、頑なにシャベルで土を掘り続ける彼の背中をじっと見つめる。
ディルクがしばらく掘り続けると、土の中から小さな紙の包みが現れた。
次々と出てくる包みをすべて掘り起こし、それらを丁寧に取り上げ土を払ってから、彼女へと差し出す。
ファビオラの掌にたくさんの包みが乗せられる、まさにそのとき。彼女は自身の左手の薬指に、銀色に輝く指輪を視界に捉えた。
両手で抱えきれない数の紙包みを差し出すディルクの指にも、同じ愛の証が光を放っている。
その光が意味するすべてを悟った瞬間、彼女の大きく見開かれた目から、熱い一筋の涙が流れ落ちた。
「この身と心は、永遠に君と共に……」
頭上から優しく降り注いだその言葉に、ファビオラは弾かれたように視線を上げた。
視線の先にいたディルクの目は真っ赤に染まり、その瞳からは絶え間なく涙が溢れ出ていた――。
❖
俺の記憶の底に眠る母の面影は、消え入りそうなほど微かなものだった。
けれど、夢の中で触れた母自身の記憶は驚くほど鮮明で、優しい愛に満ち溢れていた。
まるで、脳の奥底に直接投射される映画を、特等席で観せられているかのような感覚。
――山積みの書類に筆を走らせながらも、その傍らで赤子の俺を寝かせ、いつも愛おしそうに頭を撫でてくれる姿……。そこから溢れ出した母の記憶は、映像となって脳裏を駆け巡る。
泣きじゃくる赤子を困り顔であやす姿……。おぼつかない足取りで歩く息子を、ハラハラしながら見守る目線……。スプーンで子供の口元に食事を運び、優しく微笑む横顔……。庭の花を引っ張る子供を、眉をひそめて叱りつける表情……。
そして別れの時。愛と謝罪の言葉を何度も、何度も繰り返し……。最後に俺の額へそっと祈るような口づけを落とし、母は闇の奥へと消えていった。
覚えているのは、幼い頃に俺の頭を撫でてくれた父の、少しゴツゴツした手のひらだ。必要以上に、その手はいつも俺の頭上にあった。
時に優しく、時に厳しく。彼は父親と母親、その両方の役割をたった一人で背負いながら、ここまで育て上げてくれたのだろう。彼は自慢の父だった。
……だが、運命は残酷だった。
父が不治の病を患っていると知らされたのは、俺が伯爵位を継承して間もなくのことだった。
さらに、その病がきっかけとなり、長年行方知れずだった母の消息がようやく判明したかと思えば――母もまた、父と同じ病に冒され、すでにこの世を去っていたのだ。
その事を知った父は、一度たりとも薬を口にしようとはしなかった。
『母さんと一緒にあの世で病を克服したい』真実を知った父はそう言って、俺に深々と頭を下げた。
ほどなくして屋敷を去った父は、母の眠る場所が見えるところへと移り住んだ。それからというもの、残された薬を一つずつ毎日母の墓石へと捧げ続けた。
客観的に見れば、それはあまりにも寂しく、何の意味もない行為だと思った。
しかし、幼い頃から母の写真に愛を囁く父の背中を見て育った俺には、口を挟むことなどできなかった。
母が消えたあの日から、父のこころは……ずっと、彼女の後を追い続けていたのだと知っていたから。
父が母の元へと旅立った。その報せを受けた俺は、慌てて教会へと馬車を走らせた。
教会の奥へ駆け込むと、窓から差し込む茜色の日差しが父を優しく照らしていた。
窓の向こうに見える母の墓石の方へ顔を向けたまま、父は微笑むように安らかな表情で息絶えていた。
母の眠る場所へと、父の願い通りに埋葬した。父の名が新たに刻み込まれた墓石には、すでに母の指輪が嵌め込まれている。
俺はその隣に新しく小さな窪みを刻み、父の指輪を嵌め込んだ。
今度こそ、二人があの世で幸せになれるようにと祈りを込めて――。
秒針を刻むはずの微かな音に違和感を覚え、懐中時計をポケットから取り出す。
あろうことか文字盤の中で、時計の針が逆方向へと高速で回転していた。常軌を逸した金属音が鼓膜を叩く――。
そのとき、視界の端に眩い光が飛び込んできた。弾かれたように光の源へと視線を走らせる。
……その先にある光景に――俺は絶句した。
墓石に並んで嵌め込まれた両親の『対の指輪』が、厳かな輝きを放っていたのだ。
増していく眩しさに目を細めた瞬間、柔らかな風が俺の頬を撫でた。
指輪が砂のように崩れ光の粒子となって、さらさらと風に乗って消えていく。
その神秘的な光景に胸が熱く震え、光が消え去るその先へ視線を走らせた――。
夢から覚めた時。頬を伝う涙は止まらなかった。
真実の愛と共に生きた、両親の切ない遠い記憶。
その果てにあったもの――。
それは、父と母の深い愛がもたらした時間の奇跡そのものだった。
●コミカライズ「結婚式が婚約破棄の会場となった理由〜式目前に婚約中の彼の浮気を知りました〜」☆作画は、直山先生☆
本編に留まらず、ヒーロー視点まで盛り込んだ素晴らしい作品に仕上げてくださいました。
ブシロードワークス様より2026年7月8日発売の『婚約破棄ならお好きにどうぞ。したたか令嬢の華麗なる復讐〜アンソロジーコミック』に収録されます。
●04先生に本作の素敵なイラストを描いていただきました!
描写の雰囲気まで見事に表現された、本当に素敵な作品に仕上げてくださりありがとうございました。
●最後まで読んでいただきありがとうございました。引き続き次の作品の執筆に入っているため、感想欄を一度閉じさせていただいております。
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