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第九章 ソロンの拒絶


 あの日から、一年が過ぎた。


 シオンは十一歳になり、アーデン家の邸宅で静かな日々を送っていた。祖父の言いつけ通り、あの力のことは誰にも話さなかった。両親にさえも。日常は、何事もなかったかのように続いていた——表面上は。


 しかし、運命は、静かに動き続けていた。



              *



 王宮の謁見の間。


 ルミナリア帝国の玉座には、一人の男が座っていた。


 アルベルト三世。この帝国を治める王。かつては賢明で慈悲深い君主として知られていた男。民に寄り添い、平和を愛し、公正な裁きで国を繁栄に導いた名君——それが、かつての彼だった。しかし、王妃を亡くしてからの彼は、別人のようになっていた。


 目は虚ろで、頬はこけている。かつての威厳は影を潜め、代わりに狂気の光が瞳に宿っていた。痩せた指が、玉座の肘掛けを神経質に叩いている。眠れぬ夜が続いているのだろう——目の下には深い隈が刻まれていた。


「ヴィクター」


 王は、傍らに控える側近を呼んだ。声は枯れ、力がない。


「はい、陛下」


 ヴィクター・グレイヴ。王の右腕として知られる男。冷酷で計算高く、王の狂気に取り入って権力を握った人物だった。鷹のような鋭い目、薄い唇、整えられた銀髪。その姿は優雅だが、どこか蛇を思わせる冷たさがあった。


「あの噂は、本当なのか」


「どの噂でございましょう」


「継承者の血族の子供——アーデン家の孫が、死者を蘇らせる力を持っているという噂だ」


 ヴィクターは、わずかに口元を歪めた。それは微笑みというよりも、獲物を見つけた捕食者の表情だった。


「調査いたしましたところ、確かにそのような報告がございます。一年ほど前、アーデン家の庭園で、死んだ小鳥が息を吹き返したという目撃証言が」


「目撃者は?」


「邸宅の使用人の一人でございます。窓から庭を眺めていた際、偶然目にしたとのこと。少年が小鳥を手に取ると、金色の光が放たれ、小鳥が飛び立ったと」


 王の目が、ぎらりと光った。虚ろだった瞳に、狂熱の炎が灯る。


「死者を蘇らせる力……」


 その言葉を口にした瞬間、王の顔に、狂気じみた笑みが浮かんだ。唇が歪み、目が見開かれる。


「それがあれば……エリザを、蘇らせることができる」


 エリザ。亡き王妃の名だった。美しく聡明で、民に愛された女性。彼女を失ってから、王は壊れてしまった。


「陛下」ヴィクターが進言した。その声は蜜のように滑らかだった。「アーデン家の当主・ソロンを召喚し、孫を宮廷に差し出すよう命じてはいかがでしょう」


「そうだ。そうしよう」


 王は立ち上がった。痩せた体が、興奮で震えている。


「すぐに使者を出せ。ソロンを呼び出すのだ。そして、あの子供を私の前に連れてこさせろ」


「かしこまりました」


 ヴィクターは深く頭を下げた。その口元には、冷たい笑みが浮かんでいた。計画通りに事が運んでいることへの、満足げな笑み。



              *



 翌日、アーデン家に王宮からの使者が訪れた。


 ソロンは、書斎で使者からの書状を受け取った。封蝋を割り、羊皮紙を広げる。


『アーデンソロンに告ぐ。本日中に王宮に参内し、陛下に謁見せよ。孫・シオンを同伴のこと』


 ソロンは、書状を握りしめた。


 ついに来たか——その思いが、胸をよぎった。覚悟はしていた。しかし、こうして現実になると、胃の底が冷えるような感覚があった。


 一年間、シオンの力を隠し通してきた。しかし、どこかから漏れたのだ。使用人の誰かが目撃し、それが王の耳に入ったのだろう。あの日、庭でシオンを見つけた時から、こうなることは予感していた。


「シオンは、連れて行かない」


 ソロンは使者に告げた。声は静かだが、揺るぎない意志が込められていた。


「しかし、陛下の命令でございます」


「命令であろうと、従うわけにはいかない。孫はまだ十一歳だ。王宮に連れて行く理由がない」


 使者は困惑した顔をした。王命に背く者など、滅多にいないのだろう。


「ソロン殿、陛下のご命令に背くおつもりですか」


「私一人で参内する。シオンのことは、私が陛下に直接お話しする」


 使者は何か言いかけたが、ソロンの目を見て口をつぐんだ。老賢者の目には、決して退かないという意志が宿っていた。何十年もの修行と経験が培った、岩のような強さ。


「……承知いたしました。陛下にはそのようにお伝えします」


 使者は去っていった。


 ソロンは窓の外を見た。空は曇っていた。嵐の前の静けさのような、重苦しい空気が漂っていた。鳥も鳴かず、風も止んでいる。世界が息を殺しているようだった。



              *



 その日の夕方、ソロンは王宮に向かった。


 謁見の間に入ると、王が玉座に座っていた。その傍らには、ヴィクターが控えている。広い部屋に、三人の影だけが落ちていた。窓から差し込む夕日が、床に長い影を作っている。


「ソロン、来たか」


 王の声は、不機嫌だった。期待を裏切られた子供のような、苛立ちを隠さない声。


「陛下」ソロンは頭を下げた。「お呼びにより、参上いたしました」


「孫はどうした。連れてくるよう命じたはずだが」


「申し訳ございません。シオンはまだ幼く、王宮の謁見に耐えられる年齢ではございません。私一人で参内させていただきました」


 王の目が、鋭くなった。狂気を帯びた視線が、ソロンを射抜く。


「言い訳は聞きたくない。お前の孫が、死者を蘇らせる力を持っているというのは本当か」


 ソロンは、一瞬、息を詰めた。心臓が早鐘を打つ。


 そして、静かに答えた。声が震えないように、気をつけながら。


「……そのような力は、ございません」


「嘘をつくな」


 王が立ち上がった。その顔には、怒りと焦燥が浮かんでいた。痩せた体が、怒りで震えている。


「使用人の証言がある。お前の孫が、死んだ小鳥を生き返らせたと」


「それは誤解でございます。小鳥は気絶していただけで、シオンが介抱したところ目を覚ましたのです」


「誤解だと?」王は嘲るように笑った。乾いた、不快な笑い声。「私を馬鹿にしているのか、ソロン」


「決してそのようなことは——」


「黙れ!」


 王の怒声が、謁見の間に響き渡った。壁に反響し、何度も返ってくる。


 静寂が訪れた。張り詰めた空気が、肌を刺す。


 王は玉座から降り、ソロンの前まで歩いてきた。ローブの裾が、床を引きずる音だけが響いている。


「ソロン、お前は私の命令に背くつもりか」


「陛下——」


「私はエリザを取り戻したいのだ」王の声が、震えた。怒りではない——悲しみだった。「あの優しい笑顔を、もう一度見たいのだ。そのためなら、何でもする。何でもするのだ」


 ソロンは、王の目を見つめた。


 そこには、狂気があった。しかし、その奥には、深い悲しみも見えた。愛する者を失った苦しみ。その苦しみから逃れようとする、藁にもすがる思い。王もまた、一人の人間なのだ——愛を知り、喪失を知る、弱い存在。


 しかし、ソロンは首を横に振った。心が痛んだが、曲げるわけにはいかなかった。


「陛下、お気持ちはわかります。しかし、死者を蘇らせることは、許されません」


「なぜだ!」


「それは、この世界の理に反する行為だからです。仮にそのような力があったとしても、使えば取り返しのつかないことになります。世界の均衡が崩れ、災いが——」


「理だと? 世界だと?」王は笑った。狂気を帯びた、甲高い笑い声。「そんなものは、どうでもいい。私はエリザを取り戻す。それだけだ」


「陛下——」


「ソロン」王の声が、冷たくなった。感情が消え、氷のような声。「最後にもう一度聞く。お前の孫を、差し出せ」


 ソロンは、深く息を吸った。肺に空気を満たし、心を落ち着かせる。


 そして、はっきりと答えた。


「お断りいたします」


 謁見の間の空気が、凍りついた。


 ヴィクターが、にやりと笑うのが見えた。予想通りの展開だと言わんばかりの、冷たい笑み。


 王は、しばらくソロンを見つめていた。その目には、怒りと失望が渦巻いていた。信頼していた臣下に裏切られた——そんな表情だった。


「……そうか」


 王は背を向け、玉座に戻った。足取りは重く、背中は丸まっていた。


「ソロン、お前は今日から、宮廷への出入りを禁じる。お前の意見は、もう聞かない」


「陛下——」


「下がれ」


 王は手を振った。疲れきった、投げやりな動作。


 ソロンは、それ以上何も言わなかった。深く頭を下げ、謁見の間を去った。背中に、王の視線が突き刺さるのを感じながら。



              *



 廊下を歩きながら、ソロンは考えていた。


 王は諦めない。今日は引き下がったが、必ず別の手を打ってくる。シオンを手に入れるためなら、どんな手段でも使うだろう。時間は、あまりない。


「ソロン殿」


 背後から声がした。振り返ると、ヴィクターが立っていた。足音もなく近づいてきたのか——まるで影のような男だ。


「何用だ」


「いえ、お見送りに参りました」ヴィクターは丁寧に言った。しかし、その目は笑っていなかった。蛇のような、冷たい目。「ソロン殿、賢明な判断をなさった方がよろしいかと」


「どういう意味だ」


「陛下は、王妃様を取り戻すことに執心しておられます。その妨げになる者は、たとえアーデン一族であっても——」


 ヴィクターは言葉を切り、微笑んだ。薄い唇が、弧を描く。


「——排除されるでしょう」


 ソロンは、ヴィクターを睨みつけた。


「脅しか」


「いいえ、忠告でございます。陛下のご意志に逆らうことの愚かさを、お伝えしているだけで」


 ヴィクターは深々と頭を下げた。


「ご自愛くださいませ、ソロン殿」


 そう言い残し、ヴィクターは去っていった。足音は静かで、まるで幽霊のようだった。


 ソロンは、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 嵐が来る。それも、かつてない大きな嵐が。逃げる準備をしなければならない。


 ソロンは邸宅に戻り、シオンを呼んだ。


「シオン、話がある」


「おじいさん、どうしたの。王宮で何かあった?」


 シオンの顔は、不安に曇っていた。祖父の表情から、ただ事ではないことを察しているのだろう。


 ソロンは孫の目を見つめた。


「お前の力のことが、王に知られた」


 シオンの顔が、青ざめた。血の気が引き、唇が震えている。


「嘘……どうして……」


「誰かが目撃し、報告したのだろう。王は、お前を差し出すよう命じてきた」


「僕を……」


「私は断った。しかし、王は諦めないだろう。近いうちに、何か行動を起こしてくる」


 シオンは俯いた。体が震えていた。恐怖と罪悪感が、その小さな肩にのしかかっている。


 ソロンはシオンの肩を抱いた。温かい手で、優しく。


「心配するな。私がお前を守る。たとえ何が起ころうとも」


「おじいさん……」


「だが、覚悟はしておきなさい。最悪の場合、この邸宅を離れることになるかもしれない」


 シオンは顔を上げ、祖父を見つめた。目に涙が光っている。


「逃げる、ってこと?」


「そうだ。この国を出なければならないかもしれない。そうなった時、お前はついてこられるか」


 シオンは、しばらく黙っていた。様々な思いが、胸の中で渦巻いているのだろう。両親のこと。この家のこと。リアムやティアとの約束のこと。


 そして、静かに頷いた。


「ついていく。おじいさんと一緒なら、どこへでも」


 ソロンは微笑んだ。孫の強さが、誇らしかった。


「よく言った。お前は、強い子だ」


 窓の外では、雲が厚くなり始めていた。夕日が雲に隠れ、薄暗くなっていく。


 嵐の足音が、確実に近づいていた。



                                   第九章 了


お読みいただきありがとうございます。

「クロノス・クロニクル」、いかがでしたでしょうか。


完結まで毎日18時に更新予定です!


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