第八章 禁忌の目覚め
——これは、リアムが帝国に着く一年前の出来事である。
王都ルミナリアの貴族街。
その一角に、アーデン家の邸宅はあった。
白い壁と青い屋根。広い庭園には四季折々の花が咲き、噴水の水音が涼やかに響く。古い樫の木が木陰を作り、石畳の小道が緑の芝生の間を縫っている。帝国有数の名家にふさわしい、優雅な佇まいだった。
十歳になったシオンは、その庭園の片隅に座っていた。
手には、一冊の古い本。祖父・ソロンから借りた、魔法理論の入門書だった。革張りの表紙は色褪せ、ページの端は黄ばんでいる。しかし、そこに記された文字は、今なお鮮明だった。
「……時の流れは、万物を支配する。過去から未来へ、一方向にのみ流れる川のように。しかし、真の賢者は、その流れに干渉することができる……」
シオンは声に出して読み上げた。木漏れ日が、ページの上で揺れている。
三年前、ミストリアで過ごした日々。あの時、魔物と戦った際に感じた不思議な感覚。世界がゆっくりになり、自分だけが速く動けたような——あの瞬間を、シオンは今でも鮮明に覚えていた。体の芯から湧き上がる熱と、指先まで走る力の奔流。
あれ以来、何度か同じ感覚を味わおうとした。しかし、うまくいかなかった。あの力は、自分の意志で発動できるものではないようだった。まるで、眠っている獣のように、呼んでも起きてくれない。
「時の秘術、か……」
シオンは本を閉じ、空を見上げた。雲一つない青空が、どこまでも広がっている。
祖父は、時の秘術について多くを語ろうとしなかった。「まだ早い」と言うばかりで、具体的なことは教えてくれない。何かを恐れているような、そんな気配があった。
しかし、シオンは知っていた。自分の中に、何か特別な力が眠っていることを。
*
昼下がりの庭園は、静かだった。
両親——父のケイルと母のミラ——は、王宮での会議に出席している。祖父のソロンは、書斎で研究に没頭している。使用人たちは、それぞれの仕事に追われていた。邸宅は広く、昼間はどこか物寂しい静けさに包まれることが多かった。
シオンは一人で、庭園を散歩していた。
薔薇の茂みを抜け、小さな池のほとりに出る。池には錦鯉が泳ぎ、睡蓮の花が浮かんでいた。水面に映る空は、実際の空よりも深い青に見えた。
そこで、シオンは足を止めた。
池のほとりの草むらに、何かが落ちていた。色鮮やかな青が、緑の中で目立っている。
近づいて見ると、それは一羽の小鳥だった。
青い羽に、白い腹。まだ幼い、小さな鳥。しかし、その体は動かなかった。目は閉じられ、羽は力なく広がっている。足は硬直し、くちばしはわずかに開いたままだった。
「……死んでる」
シオンは膝をついて、小鳥を見つめた。胸が締め付けられるような感覚が広がる。
巣から落ちたのだろうか。あるいは、猫に襲われたのか。いずれにせよ、この小鳥は、もう生きていなかった。朝まで元気に鳴いていたかもしれない。空を飛ぶことを夢見ていたかもしれない。それが今、こうして土の上に横たわっている。
シオンは、悲しくなった。
こんなに小さな命が、こんなにあっけなく終わってしまうなんて。この小鳥は、まだ空を飛ぶことも、歌を歌うことも、これからだったはずなのに。可能性に満ちた未来が、一瞬で閉ざされてしまった。
「かわいそうに……」
シオンは小鳥を両手で包み込むように持ち上げた。
冷たかった。もう、体温は残っていない。軽い。こんなにも軽い体で、あの広い空を飛ぼうとしていたのか。
——もし、この子を助けられたら。
そんな思いが、ふと胸をよぎった。
——もし、時間を戻せたら。この子が死ぬ前の時間に、戻すことができたら。
それは、不可能な願いだった。死者は蘇らない。それが、この世界の理だ。祖父がいつも言っていた。「時の流れに逆らってはならない」と。
しかし、シオンの心は、その願いを手放すことができなかった。この小さな命を、このまま終わらせたくなかった。
——お願い。生き返って。
シオンは目を閉じ、祈るように小鳥を握りしめた。小さな体の感触が、掌に伝わる。もう一度だけ、飛ばせてあげたい。もう一度だけ、歌わせてあげたい。
その瞬間だった。
シオンの右手が、熱くなった。
目を開けると、掌に光が灯っていた。
太陽のような、金色の光。それは、三年前に秘境で感じたあの光と同じだった。しかし、今回はもっと強く、もっと鮮明だった。体の奥底から湧き上がるような、圧倒的な力の波動。
「なんだ、これ……」
シオンは自分の手を見つめた。声が震えている。
光は手の甲にも広がり、そこに紋様が浮かび上がっていた。
円を描く光の線。その中心には、太陽を模した図形。光線が放射状に伸び、まるで夜明けの太陽のように輝いている。肌に刻印されたかのように、くっきりと浮かんでいた。
——陽光の刻印。
シオンは、その名前を本能的に理解した。これが、祖父が語ろうとしなかったもの。アーデン一族に伝わる、時の秘術の証。血脈に刻まれた、力の印。
紋章から放たれる光が、小鳥を包み込んだ。
そして——
小鳥の体が、震えた。
閉じていた目が、ゆっくりと開いた。黒い瞳が、シオンを見上げている。
「……え?」
シオンは息を呑んだ。心臓が、痛いほど強く打った。
小鳥は目を瞬かせ、首を傾げた。そして、小さな声で鳴いた。
ピィ。
生きている。この小鳥は、確かに生きている。
「嘘だろ……」
シオンは信じられない思いで、小鳥を見つめた。
たった今まで、冷たくなっていた体。動かなかった羽。それが今、シオンの手の中で、確かに息をしている。体温が戻り、心臓が脈打ち、命が——命が蘇っている。
小鳥はシオンの掌から飛び立ち、近くの枝にとまった。そして、元気よく歌い始めた。まるで、何事もなかったかのように。日差しを浴びながら、喉を震わせて。
シオンは、しばらく呆然としていた。
自分が何をしたのか、理解が追いつかなかった。
——僕が、この子を生き返らせた?
そんなことが、可能なのか。死んだものを、蘇らせることが。
右手を見ると、紋章はすでに消えていた。しかし、あの光の感触は、まだ手の中に残っていた。指先が痺れるような、体の芯が熱いような、不思議な余韻。
*
「シオン」
背後から、声がした。
シオンは振り返った。
そこに、祖父のソロンが立っていた。
その顔は、青ざめていた。血の気が引き、唇が白くなっている。いつもは穏やかな目が、今は恐怖に見開かれていた。
「おじいさん……」
「今のを、見ていた」
ソロンの声は、いつになく硬かった。震えを抑えようとして、かえって強張っているような声。
「お前は、今、何をした?」
「僕は……死んだ小鳥を、見つけて……それで、手を当てたら……」
シオンは言葉を詰まらせた。自分でも、何が起こったのかわからなかった。
「生き返った、のか」
ソロンの問いに、シオンは頷いた。
「はい……でも、どうして、僕にそんなことが……」
ソロンは深く息を吐いた。肩が落ち、一瞬、老人のように見えた。そして、シオンの前にしゃがみ込んだ。膝が芝生を濡らすのも構わず。
「シオン、よく聞きなさい」
祖父の目は、真剣だった。恐怖と悲しみが、その奥に渦巻いていた。孫を見つめる目に、言葉にできない苦悩が滲んでいる。
「今お前が使った力は、『時の逆行』と呼ばれるものだ。死んだものを、死ぬ前の状態に戻す——つまり、蘇らせる力」
「蘇らせる……」
「これは、時の秘術の中でも、最も危険な禁忌の術だ」
シオンは息を呑んだ。禁忌——その言葉の重さが、胸にのしかかる。
「禁忌……?」
「そうだ」ソロンは頷いた。「時の流れに干渉することは、この世界の理に反する行為だ。特に、死者を蘇らせることは、決して許されない。それは、時の神への冒涜であり、世界の均衡を崩す行為なのだ」
シオンは、小鳥がとまっている枝を見た。小鳥は、何も知らずに歌い続けている。その声は美しいが、今のシオンには、どこか悲しく聞こえた。
「でも、おじいさん。この子は、生きてる。僕は、この子を救っただけじゃ——」
「救った?」ソロンの声が、鋭くなった。「お前は、何も救っていない。お前は、この世界に、取り返しのつかない傷をつけたのだ」
シオンは言葉を失った。
ソロンの目には、涙が浮かんでいた。それは、怒りの涙ではなかった。恐怖と悲しみの涙だった。孫を責めているのではない——運命を嘆いているのだ。
「シオン……」ソロンは孫の肩を掴んだ。その手は震えていた。「この力のことは、誰にも言ってはならない。特に、王には絶対に知られてはならない」
「王様に……? どうして?」
ソロンは目を伏せた。長い沈黙が流れた。
「王妃様が亡くなってから、王は変わってしまった。王は、王妃様を蘇らせる方法を探している。もしお前の力を知れば……」
シオンは、祖父の言葉の意味を理解した。血の気が引いていくのを感じた。
王は、シオンの力を使って、亡くなった王妃を蘇らせようとするだろう。そして、そのためには手段を選ばないだろう。
「僕の力で、王妃様を……」
「それは、絶対にしてはならない」ソロンは強く言った。目が、真剣に燃えていた。「王妃様を蘇らせれば、世界の均衡は完全に崩れる。そして、封印されし者が目覚めることになる」
「封印されし者……?」
ソロンは、しばらく沈黙した。言葉を選んでいるようだった。
やがて、重い口を開いた。
「クロノス・アビサル。かつてこの世界を支配しようとした、時の神。太古の大賢者が、命を賭して封印した存在だ。お前の力は、その封印を解く鍵になりうる」
シオンは、背筋が凍る思いだった。
自分の力が、そんな恐ろしいものだったとは。小鳥を救いたいという、ただそれだけの願いが、世界を揺るがす力を呼び覚ましてしまったのだ。
「おじいさん、僕……どうすれば……」
ソロンはシオンを抱きしめた。強く、強く。
「心配するな。私がお前を守る。この力のことは、誰にも知られないようにする。お前は、今まで通りに暮らせばいい」
シオンは祖父の胸に顔を埋めた。
温かかった。しかし、その温もりの向こうに、冷たい予感があった。
何かが、動き始めている。
自分の力が目覚めたことで、運命の歯車が、ゆっくりと回り始めている。
それは、止められない流れだった。
*
その夜、シオンは夢を見た。
暗闘の中に、一人の人影が立っていた。
その姿は、はっきりとは見えなかった。影のような、霞のような、輪郭のぼやけた存在。しかし、そこから放たれる威圧感は、圧倒的だった。空気が重くなり、息をするのも苦しいほどの、圧倒的な存在感。
『目覚めたか、時の継承者よ』
低い声が、シオンの頭の中に響いた。耳から聞こえるのではない。脳に直接響いてくるような、不思議な声。
『お前の力は、まだ未熟だ。しかし、その種は確かに芽吹いた』
シオンは、声の主に問いかけようとした。しかし、声が出なかった。口を開いても、言葉にならない。夢の中では、自分の体が自分のものではないようだった。
『待っているぞ。いずれお前は、私の前に来る。そして、その時——』
人影が、笑ったような気がした。闇の中で、何かが蠢いている。
『——全てが、始まる』
シオンは、叫び声を上げて目を覚ました。
体中が、汗で濡れていた。寝間着が肌に張り付いている。心臓が、激しく鳴っている。まだ夢の中にいるような、現実との境界が曖昧な感覚。
窓の外には、月が浮かんでいた。静かな夜だった。虫の声が、遠くで聞こえている。
しかし、シオンの心は、嵐のように乱れていた。
——あれは、何だったんだ。
夢の中の声。あの威圧感。まるで、深淵から響いてくるような、冷たい声。あの存在は、シオンを「時の継承者」と呼んだ。
シオンは、枕元に置いてあった虹色の結晶を握りしめた。
——リアム。ティア。
友達の顔を思い浮かべると、少しだけ心が落ち着いた。あの二人なら、きっとわかってくれる。一緒に悩んでくれる。
しかし、不安は消えなかった。
何かが、始まろうとしている。自分でも止められない、大きな流れが。
シオンは、夜明けまで眠れなかった。
第八章 了
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