第七章 リアムの旅立ち
馬車の旅は、七日間続いた。
道中、三人の子供たちはほとんど言葉を交わさなかった。トビアスは窓の外を見つめ続け、リーナは時折すすり泣いた。リアムは、懐中時計を握りしめながら、流れていく風景を眺めていた。麦畑、森、川、小さな村——見知らぬ土地が、次々と過ぎ去っていく。
帝国の王都「ルミナリア」は、大陸の中央に位置する巨大な都市だった。リアムが生まれ育った港町とは比べものにならない規模。白い城壁に囲まれた街並みは、どこまでも続いているように見えた。城壁の高さだけで、港町の建物の何倍もある。
「すごい……」
リアムは、馬車の窓から身を乗り出して、その光景に見入った。
街路には石畳が敷かれ、両側には立派な建物が並んでいる。大理石の柱、精緻な彫刻、色とりどりのステンドグラス。行き交う人々の服装は華やかで、馬車も荷車も整然と流れていた。まるで、絵本の中の世界に迷い込んだかのようだ。
しかし、その美しさの裏に、リアムは何かを感じ取っていた。
人々の表情が、どこか硬い。笑顔が少ない。そして、街のあちこちに、帝国の兵士が立っている。黒い鎧、長い槍、鋭い目つき——まるで、獲物を狙う猛禽のようだ。
——監視されている。
この街全体が、巨大な檻のように思えた。美しい檻。しかし、檻であることに変わりはない。
*
馬車は、街の中心部にある巨大な建物の前で止まった。
王立学院。帝国最高の教育機関であり、貴族の子弟が学ぶ場所。そして、各国から集められた「留学生」たちが収容される場所。
リアムは馬車を降り、その建物を見上げた。
白い壁、青い屋根、金色の装飾。威厳と権威を示す、圧倒的な存在感。正面には巨大な門があり、その上には帝国の紋章——金の獅子と剣——が輝いていた。しかし、リアムにはそれが美しいとは思えなかった。むしろ、冷たく、威圧的に感じられた。
「留学生は、こちらへ」
案内役の男が、無表情に言った。痩せた男で、目の下には濃い隈がある。
リアムと、同じ馬車に乗っていた二人の子供は、案内役に従って建物の中へ入った。リーナの足取りは重く、トビアスは何度も後ろを振り返った。
廊下は長く、窓から差し込む光が冷たく感じられた。磨き上げられた床、高い天井、壁に掛けられた肖像画——どれも立派だが、どこか生気がない。すれ違う生徒たちが、リアムたちを見て、露骨に顔をしかめる。
「留学生か」
「また増えたのね。貧乏国の子供たち」
「近寄らないでよ。汚れが移りそう」
ひそひそ声が、リアムの耳に届いた。笑い声が後ろで響く。
リアムは表情を変えなかった。こういうことは、覚悟していた。帝国の貴族たちにとって、留学生は「人質」であり「劣等生」なのだ。見下されることは、わかっていた。
しかし、隣を歩いていたリーナが、唇を噛んで俯いた。彼女の目には、涙が浮かんでいた。肩が小刻みに震えている。
リアムは、そっと彼女の手を握った。
「大丈夫。気にするな」
リーナはリアムを見て、小さく頷いた。その手は、冷たく震えていた。
*
留学生たちは、学院の地下にある部屋に集められた。
そこには、すでに十人ほどの子供たちがいた。皆、リアムと同じ「留学生」だった。様々な国から集められた、人質の子供たち。年齢も様々——八歳くらいの幼い子から、十五歳くらいの少年少女まで。しかし、どの顔にも、同じ表情が浮かんでいた。不安、恐怖、そして諦め。
部屋の奥には、一人の男が立っていた。
灰色のローブを着た、痩せた男。頬がこけ、目は鋭く、口元には冷笑が浮かんでいた。蛇のような男だ——リアムは直感的にそう思った。
「新入生諸君、ようこそ王立学院へ」
男は芝居がかった口調で言った。両腕を広げ、大げさな身振りで。
「私はこの学院の副学院長、ガレス・モルドレッドだ。お前たち留学生の監督を務める」
ガレスは部屋を見回し、続けた。その目が、一人一人の顔を舐めるように這っていく。
「まず、一つ理解しておいてもらいたいことがある。お前たちは、この学院の『生徒』ではない。『客人』でもない。お前たちは……」
ガレスは言葉を区切り、冷たく笑った。唇の端が、不快なほどつり上がっている。
「……『担保』だ。お前たちの親が帝国に従う限り、お前たちは安全だ。しかし、もし親が帝国に逆らえば……」
ガレスは指を鳴らした。乾いた音が、部屋に響く。
「お前たちの命は、ない」
部屋の空気が、凍りついた。
子供たちの顔が青ざめる。中には、泣き出す者もいた。リーナが、リアムの腕にしがみついてきた。
リアムは黙って、ガレスを見つめていた。脅しだということはわかっていた。しかし、その脅しが嘘ではないこともわかっていた。この男は、本当にやるだろう。躊躇なく。
「さて、次に」ガレスは机の上から、いくつかの金属製の輪を取り上げた。銀色に光る、細い輪。「これを装着してもらう」
それは、腕輪だった。シンプルなデザイン。しかし、その表面には、複雑な紋様が刻まれていた。見たことのない文字——古代の魔法文字だろうか。
「これは『封印の腕環』と呼ばれるものだ。留学生には、全員に装着が義務付けられている」
「それは……何のために?」
一人の少年が尋ねた。勇気のある子だ——リアムはそう思った。
「魔法の制限だ」ガレスは答えた。「この腕輪を着けている間、お前たちは魔法を使うことができない。帝国の許可なく魔法を行使することは、重罪だからな」
リアムは眉をひそめた。
魔法の制限。つまり、彼らから力を奪うということだ。反抗する手段を、最初から封じておくために。鳥の翼をもぎ、犬の牙を抜くようなものだ。
「順番に、前に出ろ」
ガレスの命令で、子供たちが一人ずつ前に進んだ。
腕輪が装着されるたびに、淡い光が走り、そして消えた。装着された子供たちは、何かが抜け落ちたような顔をしていた。虚ろな目、力の抜けた肩——まるで、魂を抜かれたかのように。
やがて、リアムの番が来た。
「お前は……メルカリアか」ガレスは書類を見ながら言った。「商人の息子だな。魔法の素養は……低い、と」
リアムは黙って頷いた。
実際、リアムには魔法の才能がほとんどなかった。商人の家系には、魔法使いは少ない。金勘定と商談が得意でも、呪文を唱えることはできない。だから、この腕輪はリアムにとってはそれほど大きな制約ではなかった。
しかし、他の子供たちにとっては違う。魔法使いの家系の子供たちにとって、魔法を封じられることは、翼をもがれるようなものだ。
冷たい金属が、リアムの手首に巻き付いた。
かちり、という音と共に、腕輪が固定された。皮膚に食い込むような感覚。これから何年も、この金属と共に生きていくのだ。
「よし。これで全員だ」
ガレスは満足そうに頷いた。まるで、家畜に焼き印を押し終えたかのような表情だ。
「明日から、授業が始まる。お前たちは、帝国の生徒たちと同じ教室で学ぶ。ただし、発言は許可制だ。帝国の生徒に無礼を働けば、罰を受ける。わかったな?」
子供たちは黙って頷いた。
リアムも頷いた。しかし、その目の奥には、消えない炎が燃えていた。いつか——いつか必ず、この腕輪を外す日が来る。
*
留学生たちには、学院の隅にある古い寮が割り当てられた。
部屋は狭く、窓は小さく、日当たりも悪かった。壁には染みがあり、床は軋み、天井からは蜘蛛の巣が垂れている。帝国の貴族の子弟が住む寮とは、雲泥の差だった。
リアムは、与えられたベッドに腰を下ろし、手首の腕輪を見つめた。
銀色の輪が、冷たく光っている。これが、自分を縛る鎖なのだ。見えない牢獄の、見える証。
「ねえ」
声がして、リアムは顔を上げた。
同じ部屋に割り当てられた少年が、リアムを見ていた。赤茶色の髪に、そばかすのある顔。年はリアムと同じくらいだろう。目は大きく、どこか人懐っこい印象だ。
「君、メルカリアから来たんだよね? 僕はトーマ。グリューネ公国から来たんだ」
「リアムだ。よろしくな」
「よろしく」トーマは微笑んだ。その笑顔には、まだ希望が残っていた。「ここ、大変そうだね。でも、僕たちで協力すれば、何とかなるかもしれない」
リアムは頷いた。「そうだな。一人じゃ厳しいけど、仲間がいれば心強いぜ」
「うん」トーマは嬉しそうに言った。「僕たち、友達になろう」
リアムは、久しぶりに笑った。口角が上がるのを感じた。
この場所は厳しい。差別され、監視され、自由を奪われる。しかし、同じ境遇の仲間がいる。それだけで、少し救われた気がした。
*
翌日から、学院での生活が始まった。
授業は、魔法理論、歴史、数学、文学など、多岐にわたった。教師たちは厳しく、授業についていくだけでも大変だった。特に魔法理論は、リアムにとっては難解だった。魔法の素養がないため、理論だけを頭で理解しなければならない。
しかし、最も辛かったのは、授業の内容ではなかった。
「おい、留学生」
昼休み、リアムが食堂で食事をしていると、一人の少年が近づいてきた。
金髪に青い目。高価な服を着た、いかにも貴族の子弟という風貌。顎を上げ、見下すような目つきをしている。その後ろには、取り巻きと思われる生徒が数人ついていた。皆、同じような嘲笑を浮かべている。
「お前、メルカリアの商人の息子だろう? 父親は、帝国に貢ぎ物を納めているそうだな」
リアムは黙って、少年を見上げた。反応しない。相手にしない。それが、最善の策だ。
「どうした、口がきけないのか? ああ、そうか。商人は嘘しかつけないから、本当のことを言う方法を知らないんだな」
取り巻きたちが笑った。甲高い、不快な笑い声。
リアムは、拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。怒りが込み上げてくる。しかし、ここで反撃すれば、罰を受けるのは自分だ。父が危険にさらされるかもしれない。
「……失礼します」
リアムは立ち上がり、食堂を出ようとした。
「待て」
少年がリアムの腕を掴んだ。力が強い。振りほどこうとしたが、動かない。
「誰が行っていいと言った? お前たち留学生は、帝国の生徒に敬意を払う義務がある。まずは、跪いて謝罪しろ」
周囲の生徒たちが、興味深そうに見ている。誰も、リアムを助けようとはしない。当然だ——彼らにとって、留学生は同じ人間ではないのだから。
リアムは、少年の目を見た。
怒りを抑え、冷静に言った。声が震えないように、気をつけながら。
「申し訳ありません。無礼をお許しください」
そして、頭を下げた。深く、深く。
少年は満足そうに笑い、腕を離した。
「よし。それでいい。身の程をわきまえろ、留学生」
少年たちは笑いながら去っていった。勝ち誇った足取りで。
リアムは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
屈辱だった。心の底から、屈辱だった。頭を下げている間、全身が震えていた。怒りで。悔しさで。しかし、今はこれしかない。耐えるしかない。
懐の中で、虹色の結晶が微かに温もりを帯びた。
——シオン。ティア。
リアムは、心の中で呼びかけた。
——僕は今、とても辛い場所にいる。でも、負けない。絶対に、負けない。
——いつか、この腕輪を外す日が来る。その時まで、僕は耐え続ける。強くなる。
リアムは顔を上げ、窓の外を見た。
空は青く、雲が流れていた。どこかで、シオンとティアも同じ空を見ているだろう。この空は、世界中どこでも繋がっている。
その思いだけが、リアムの支えだった。
帝国での、長い戦いが始まった。
第七章 了
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