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第六章 人質としての「留学」


 翌日の正午、帝国の使者がやってきた。


 商人組合の集会所には、メルカリアの有力な商人たちが集められていた。重苦しい空気が漂い、誰もが息を詰めて座っている。リアムの父もその中にいた。そして、リアム自身も、父の後ろに控えていた。


 使者は、黒い軍服を身にまとった中年の男だった。冷たい目をした、感情の読めない顔。鼻梁は高く、薄い唇が不快な笑みを形作っている。その後ろには、完全武装した兵士が四人、控えている。鎧の金属が、窓から差し込む光を鈍く反射していた。


「皆様にお集まりいただき、感謝いたします」


 使者は儀礼的な笑みを浮かべた。しかし、その声には温かみがなかった。まるで、原稿を読み上げているかのような無機質さ。


「本日は、ルミナリア帝国からの重要なお知らせがございます」


 商人たちは息を呑んだ。皆、何が来るか予想していた。しかし、予想していたからこそ、恐れていた。隣に座る織物商の顔が、蒼白になっている。


「帝国は、このたび『王立学院留学生制度』を創設いたしました」


 使者は巻物を広げ、読み上げ始めた。羊皮紙の上を走る指は、細く、爪が妙に長い。


「これは、帝国と友好国との絆を深めるため、各国の優秀な若者を王立学院に招き、帝国の最高の教育を授けるものでございます。卒業後は、各国の指導者として活躍していただくことを期待しております」


 美辞麗句だ——リアムはそう思った。


 言葉だけを聞けば、素晴らしい制度に聞こえる。しかし、その裏にある真意を、この場の誰もが知っていた。拳を握る父の手が、かすかに震えている。


「メルカリアからは、商人組合の推薦により、三名の留学生を選出していただきます。期限は、本日中。選ばれた者は、一週間後に帝国の迎えの馬車に乗り、王都へと向かっていただきます」


 使者は巻物を丸め、商人たちを見回した。その目が、一人一人の顔を舐めるように這っていく。


「ご質問は?」


 誰も口を開かなかった。質問などできるわけがない。この制度に反対すれば、どうなるかは明白だった。沈黙だけが、広い部屋を満たしている。


「結構。では、夕刻までにお返事をお待ちしております」


 使者は踵を返し、兵士を従えて去っていった。軍靴が床を打つ音だけが、やけに大きく響いた。



              *



 使者が去った後、集会所は重苦しい沈黙に包まれた。


 誰も動かない。誰も喋らない。窓の外では鳥が鳴いているが、それすらも遠い世界の音のように感じられた。


 やがて、一人の商人が口を開いた。声が震えている。


「……誰を出す?」


 その言葉に、他の商人たちが顔を見合わせた。視線がぶつかり、すぐに逸らされる。


「三名だと。我々の中から、三人の子供を差し出せということだ」


「差し出す、とは言いたくないが……」


「しかし、断れば国全体が危うくなる」


 商人たちは苦悩の表情を浮かべていた。誰も、自分の子供を差し出したくはない。しかし、誰かが犠牲にならなければ、全員が犠牲になる。究極の選択——いや、選択などではない。強制だ。


 リアムは、その様子を黙って見ていた。


 大人たちの顔には、恐怖と罪悪感が入り混じっていた。自分の子供を守りたい。しかし、他人の子供を犠牲にすることへの躊躇いもある。誰かを指名すれば、その人との関係は永遠に壊れる。しかし、誰も指名しなければ——


 ——これが、大人の世界なのか。


 リアムは、胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。


「私の息子を出しましょう」


 静かな声が、沈黙を破った。


 リアムは顔を上げた。声の主は、父だった。立ち上がり、真っ直ぐ前を見ている。


「チェン殿……」


「リアムは十一歳。学ぶ意欲もあり、頭も悪くない。帝国の教育を受ければ、きっと立派な商人になれるでしょう」


 父の声は、淡々としていた。まるで商談をしているかのように冷静だ。しかし、その拳が震えているのを、リアムは見逃さなかった。膝の上で、爪が掌に食い込んでいる。


「しかし、チェン殿。ご子息を……」


「誰かが出さねばならないのです。ならば、私が率先して決断するべきでしょう」


 父はリアムを見た。その目には、言葉にならない感情が渦巻いていた。悲しみ、怒り、そして——誇り。


 ——すまない。


 父の目は、そう言っていた。


 リアムは、小さく頷いた。


 ——大丈夫だよ、父さん。僕は、わかってる。


 声に出さず、そう答えた。



              *



 結局、三人の留学生が決まった。


 リアム。そして、織物商の息子——トビアスという名の痩せた少年。宝石商の娘——リーナという名の大きな目をした少女。


 三人とも、十歳から十二歳の子供だった。まだ幼い。しかし、帝国にとっては、それが最も都合が良いのだろう。幼いうちから帝国の教育を受けさせれば、帝国に忠誠を誓う人間に育てやすい。洗脳しやすい——リアムはそう思った。


 その夜、リアムは父と二人で、最後の夕食を囲んでいた。


 いや、最後ではない。必ず帰ってくる。しかし、それがいつになるかは、誰にもわからなかった。食卓には父の好きな料理が並んでいたが、二人ともほとんど手をつけていなかった。


「リアム」


 父が口を開いた。


「何?」


「お前に、渡しておきたいものがある」


 父は懐から、小さな袋を取り出した。中には、金貨が入っていた。ずっしりとした重み——十枚はあるだろう。


「これは……」


「いざという時のために取っておきなさい。帝国では、金があれば命が助かることもある。金が人を動かす。それは、どこの国でも同じだ」


 リアムは袋を受け取った。父がどれだけの苦労をして、この金を貯めてきたか、リアムにはわかっていた。何度も商談を重ね、何度も夜遅くまで帳簿と向き合い、少しずつ、少しずつ蓄えてきた金だ。


「父さん……」


「それから、これも」


 父は、もう一つのものを取り出した。


 それは、古びた懐中時計だった。銀製の蓋には、複雑な紋様が刻まれている。蔓草のような曲線と、小さな鳥の姿。


「これは、お前の母さんの形見だ」


 リアムは息を呑んだ。心臓が、痛いほど強く打った。


「母さんの……」


「母さんが亡くなる前、お前に渡してほしいと言っていた。いつか、お前が旅立つ時に、と」


 リアムは懐中時計を手に取った。金属の冷たさが、掌に伝わる。蓋を開けると、中には小さな肖像画が収められていた。若い女性の顔。優しい目をした、美しい人。微笑んでいる——リアムのことを見守るように。


「母さん……」


 リアムは、母の顔をほとんど覚えていなかった。幼い頃に亡くなったから。しかし、この肖像画を見ると、懐かしい温もりが胸に広がった。遠い記憶の底で、誰かが歌う子守唄が聞こえるような気がした。


「母さんは、商人の娘だった」父が言った。声がわずかに震えている。「彼女も、若い頃は各地を旅していた。この時計は、その時からの相棒だったそうだ」


「旅を……」


「母さんは言っていた。『世界は広い。どこにでも行ける。だから、どんな時も希望を捨てないで』と」


 リアムは懐中時計を握りしめた。金属が、少しだけ温かくなった気がした。


 母の形見。母の言葉。それが、今のリアムにとって、何よりの支えになった。


「ありがとう、父さん」


「礼を言うのは私の方だ」父は微笑んだ。目が潤んでいる。「お前は、私の誇りだ。リアム。どんなことがあっても、それを忘れるな」



              *



 出発の日は、あっという間にやってきた。


 朝霧が港町を包む中、三台の馬車が広場に停まっていた。帝国の紋章——金の獅子と剣——が描かれた、黒い馬車。まるで、棺桶のようだった。窓は小さく、内側からは何も見えないだろう。


 リアムは、荷物を抱えて馬車の前に立っていた。背中の荷物は軽い。衣服と、父からもらった金貨と、母の形見の時計と、そして——虹色の結晶。


 父が見送りに来ていた。いつもは強気な顔をしている父が、今日は泣きそうな顔をしていた。唇を噛み、必死に涙をこらえている。


「リアム……」


「大丈夫だよ、父さん」リアムは笑顔を作った。震えないように、声を張った。「僕は強いから。必ず帰ってくる」


「ああ……必ず、帰ってこい。私は、いつでもここで待っている。何があっても」


 父はリアムを抱きしめた。強く、強く。骨が軋むほど強く。


 リアムは父の背中に腕を回した。この温もりを、忘れない。どんなに辛いことがあっても、この温もりを思い出せば、耐えられる。


「時間だ。乗れ」


 帝国の兵士が、無感情な声で言った。


 リアムは父から離れ、馬車に乗り込んだ。振り返りたかったが、振り返れば泣いてしまいそうだった。


 窓から外を見ると、父がまだ立っていた。手を振っている。目から涙が流れているのが見えた。リアムも手を振り返した。


 馬車が動き出した。車輪が石畳を噛み、ゆっくりと加速していく。父の姿が、少しずつ小さくなっていく。


 やがて、港町の建物が遠ざかり、父の姿は見えなくなった。朝霧が、すべてを白く包み込んでいく。


 リアムは窓から顔を引っ込め、深く息を吐いた。涙が頬を伝った。拭わなかった。


 隣には、織物商の息子トビアスが座っていた。彼も、泣きそうな顔をしていた。膝の上で、両手を固く握りしめている。向かいには、宝石商の娘リーナ。彼女は、すでに泣いていた。声を殺して、肩を震わせて。


 三人とも、同じ境遇だった。人質として、帝国へ送られる子供たち。


 リアムは懐から、三つのものを取り出した。


 父からもらった金貨の袋。母の形見の懐中時計。そして、虹色に輝く結晶。


 ——シオン。ティア。


 リアムは結晶を握りしめた。


 ——僕は今、帝国へ向かっている。人質として。でも、負けない。絶対に負けない。


 ——いつか、また会おう。その時は、胸を張って会えるように。強くなって。


 窓の外では、見知らぬ風景が流れていた。故郷は、もう見えない。


 しかし、リアムの心には、まだ希望の火が灯っていた。


 どんな困難が待っていても、乗り越えてみせる。


 そう誓いながら、リアムは未知の世界へと向かっていった。



                                   第六章 了


お読みいただきありがとうございます。

「クロノス・クロニクル」、いかがでしたでしょうか。


完結まで毎日18時に更新予定です!


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