第五章 王の変貌と圧政
王妃の死から、一年が過ぎた。
帝国は、確実に変わっていた。
リアムは十一歳になり、父の仕事を手伝いながら、その変化を肌で感じていた。かつて活気に満ちていた市場は、今や沈黙が支配している。商人たちは声を潜めて話し、兵士の姿を見れば道を空ける。笑い声は消え、人々の目には疲労と諦めが宿っていた。活気あふれる掛け声の代わりに、ため息と囁きが市場を満たしていた。
「また値上げか……」
父——マルカンティ・チェンが、帝国から届いた書状を見て呻いた。封蝋を割った手が、わずかに震えている。
「どうしたの、父さん」
「帝国への貢ぎ物だ。去年の三倍を要求してきた」
「三倍!? そんなの、無理じゃないか」
「無理だ。だが、断れば……」
父は言葉を濁した。しかし、リアムにはわかっていた。断れば、商売を取り上げられる。最悪の場合、命さえも危ない。父の顔に刻まれた皺が、この一年で深くなったように見えた。
帝国の横暴は、日を追うごとに激しさを増していた。
*
噂は、あちこちから聞こえてきた。
王が変わった。王妃を亡くしてから、別人のようになったと。
「王様は、毎晩のように王妃様の墓前で泣いているらしい」
「いや、違う。王は泣いてなんかいない。笑っているんだ。狂ったように」
「聞いたか? 王は自分の側近を次々と処刑しているらしい」
「王妃様を救えなかった医師団は、全員が投獄されたそうだ」
市場の片隅で、商人たちがひそひそと話している。周囲を窺いながら、声を潜めて。リアムは荷物を運ぶふりをしながら、その会話に耳を傾けた。商人の息子として培った、情報を集める技術が自然と働いていた。
「王は何かを探しているらしい。王妃様を蘇らせる方法を」
「蘇らせる? そんなことが可能なのか?」
「知らん。だが、王はそれを信じているようだ。禁忌の魔術に手を出しているという噂もある」
リアムは眉をひそめた。
——王妃を蘇らせる。
それは、人の道を外れた行為だ。死者は死者として安らかに眠るべきであり、無理に引き戻すことは、自然の摂理に反する。母を亡くした時、父がそう教えてくれた。悲しくても、受け入れなければならないと。
しかし、王はそれを望んでいるという。
狂気だ——リアムはそう思った。愛する人を失った悲しみは理解できる。だが、その悲しみが国全体を蝕んでいる。王の狂気は、帝国を、そして周辺国を、暗闇へと引きずり込んでいた。
*
ある日の夕方、リアムは父と共に港へ向かった。
メルカリアは、その名の通り貿易で栄える国だった。港には世界中から船が集まり、香辛料、絹、宝石、そして情報が行き交う。かつては、この港こそがこの国の繁栄の象徴だった。潮風に乗って届く異国の香り、船乗りたちの陽気な歌声、荷を降ろす活気——それがリアムの知る港の姿だった。
しかし、今の港は、かつての面影を失っていた。
「船が、減っている……」
リアムは呟いた。以前は所狭しと並んでいた商船が、今はまばらにしか停泊していない。空いた桟橋が、寂しく波に洗われている。海鳥の鳴き声だけが、妙に大きく響いていた。
「帝国の関税が上がったからな」父が言った。その声には諦めが滲んでいた。「他の国の商船は、帝国を経由せずに取引できる航路を探している。我々の港には、もう寄らなくなったのだ」
「帝国のせいで……」
「声が大きい」
父は周囲を見回し、リアムの肩を掴んだ。近くに帝国の兵士がいないか、確認しているのだ。その仕草が、今の世の中を物語っていた。
「帝国を批判する言葉は、慎みなさい。壁に耳あり、だ」
リアムは唇を噛んだ。言いたいことを言えない。正しいことを正しいと言えない。それが、今のこの国の現実だった。
港の片隅で、リアムは一人の老人を見つけた。
老人は粗末な服を着て、空を見上げていた。日に焼けた肌と、遠くを見つめる目——かつては船長だったのだろう。風を読み、星を頼りに大海原を渡った男。しかし今は仕事もなく、ただ港で日々を過ごしているようだった。
「おじいさん、どうしたの?」
リアムは思わず声をかけた。
老人はリアムを見て、寂しそうに笑った。皺の刻まれた顔に、温かみのある笑みが浮かぶ。
「坊主か。いい目をしているな。商人の子かい?」
「うん。おじいさん、船乗りだったの?」
「ああ。五十年、海を渡ってきた。嵐の夜も、凪の日も、この足で甲板を踏みしめてきた。だが、もう終わりだ。船は帝国に没収され、乗組員は散り散りになった」
「没収……」
「帝国に逆らったからな。いや、逆らったわけじゃない。ただ、帝国の命令通りに動けなかっただけだ。それでも、罰は同じさ」
老人は空を見上げた。雲が流れていく。その視線は、はるか彼方の水平線を見ているようだった。
「かつて、この海は自由だった。どこへでも行けた。風さえあれば、夢を追いかけることができた。新しい土地、新しい人々、新しい物語——海の向こうには、無限の可能性があった。だが、今は違う。帝国の影が、海にまで伸びている」
リアムは黙って聞いていた。老人の言葉が、胸に沁みていく。
「坊主、覚えておきな」老人はリアムの目を真っ直ぐに見た。「人間は自由でなければ、生きる意味がない。帝国が何を言おうと、心だけは自由でいろ。それだけは、誰にも奪えないんだ。わかるかい?」
老人はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、去っていった。杖をつく音が、石畳に響いた。
リアムは、その背中を見送った。
——自由。
それは、今のリアムにとって、最も遠い言葉だった。しかし、最も大切な言葉でもあった。
*
帝国の圧政は、さらに過酷さを増していった。
ある日、市場に布告が張り出された。
『メルカリアは、ルミナリア帝国に対し、今後三年間にわたり、従来の五倍の貢ぎ物を納めること。これを怠れば、帝国は武力をもって制裁を加える』
商人たちがざわめいた。悲鳴に近い声が上がる。
「五倍だと……! そんな無茶な!」
「これでは、我々は干上がってしまう!」
「誰か、王に抗議できる者はいないのか!」
しかし、誰も動かなかった。帝国の兵士が布告の周りを取り囲み、睨みを利かせていたからだ。鎧が日光を反射し、剣の柄に手がかかっている。
リアムは、その光景を見つめていた。
大人たちは、怒っている。悲しんでいる。しかし、誰も行動しない。行動できない。帝国の力が、あまりにも強大だからだ。一人が立ち上がっても、潰されるだけ。そのことを、誰もが知っていた。
——これが、世の中なのか。
強い者が弱い者を踏みにじり、弱い者は耐えるしかない。それが、この世界のルールなのか。
リアムは拳を握りしめた。
違う。こんなはずじゃない。
世界は、もっと公平であるべきだ。誰もが自由に生き、自分の力で未来を切り開けるべきだ。あの老人が言っていた。心だけは自由でいろ、と。
しかし、今のリアムには、それを変える力がなかった。
*
その夜、リアムは父と二人で食卓を囲んでいた。
母は、リアムが幼い頃に病で亡くなっていた。だから、家には父とリアムの二人だけだった。質素な食事——野菜の煮物と、硬くなったパン。以前なら、もっと豊かな食卓だったはずだ。
「父さん」リアムが口を開いた。「僕たちは、どうすればいいの?」
父は箸を止め、息子を見つめた。
「どうすれば、とは?」
「帝国のこと。このままじゃ、僕たちの生活は成り立たなくなる。それでも、何もしないの?」
父はしばらく黙っていた。燭台の炎が揺れ、壁に影を落としている。そして、深くため息をついた。
「リアム、お前に話しておくことがある」
「何?」
「明日、帝国の使者が来る。そして、お前のことについて話し合う」
リアムは目を見開いた。心臓が、一瞬止まったような気がした。
「僕のこと……?」
「帝国は、各国の有力者の子弟を『留学生』として王立学院に招集する制度を始めた。我々商人も、例外ではない」
「留学生……」
「名目上は、帝国の高度な教育を受けさせるため、だ。しかし、実態は違う」
父の目が、悲しみに曇った。いつもの毅然とした表情が崩れ、そこには父親としての苦悩が滲んでいた。
「人質だ。帝国は、各国の有力者の子供を預かることで、反乱を防ごうとしている。もし親が帝国に逆らえば、子供の命はない」
リアムは言葉を失った。血の気が引いていくのがわかった。
「僕が……人質になるの?」
「まだ決まったわけではない。だが、選ばれる可能性は高い。お前は商人組合の中でも有力な家の息子だ。帝国にとっては、格好の標的だろう」
リアムは俯いた。恐怖が胸に広がる。見知らぬ土地に連れて行かれ、人質として生きる。家族から引き離され、故郷から遠く離れる。しかし、それ以上に、怒りが燃え上がった。
「そんなの……卑怯じゃないか」
「卑怯だ」父は頷いた。「だが、帝国は勝者だ。勝者は、ルールを作る側にいる。我々は、そのルールに従うしかない」
「従うしかない……? 本当にそれでいいの?」
父は息子の目を見つめた。
そこには、かつての自分と同じ炎が燃えていた。理不尽への怒り。自由への渇望。かつて、自分もそうだった。しかし、父はその炎を消すことを選んでいた。家族を守るために。息子を守るために。
「リアム」父が言った。声が震えている。「もし、お前が選ばれたら……」
「うん」
「生き延びろ。何があっても、生き延びるんだ。そして、いつか帰ってこい。私は、必ずお前を待っている」
リアムは父の顔を見た。そこには、強さと悲しみが入り混じっていた。目の端に光るものがある。父が泣いているのを見たのは、母の葬儀以来だった。
「……わかったよ、父さん」
リアムは頷いた。そして、ポケットの中の結晶を握りしめた。
——シオン。ティア。
あの時の約束を、僕は忘れていない。
どこにいても、僕たちは繋がっている。だから、何があっても、負けない。絶対に。
リアムは窓の外を見た。
夜空には、細い月が浮かんでいた。その光は、まるで希望のように、暗闇の中で輝いていた。細くても、消えない光。それが、今のリアムの心の支えだった。
帝国の影は、確実に迫っていた。しかし、リアムの心の中には、まだ消えない光があった。
いつか、この暗闇を払う日が来る。
そう信じて、リアムは明日を待った。
第五章 了
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