第三十九章 ヴァレンティア共和国の誕生
馬車が、山道を進んでいた。
車輪が石を踏み、軋む音を立てる。窓の外には、深い森が広がっていた。木漏れ日が、地面に斑模様を作っている。
シオンは、懐かしい風景を眺めていた。この道を通るのは、何年ぶりだろう。
「シオン」
隣に座っていたティアが、声をかけた。
「もうすぐ、里だよ」
「ああ……」
シオンは、胸が熱くなるのを感じた。懐かしさと、切なさが入り混じった感情。
*
馬車には、シオンとティアの他に、シオンの両親——ケイルとミラも乗っていた。
ケイルは窓の外を見つめ、ミラはシオンの手を握っている。
「久しぶりね、この道」
ミラが、窓の外を見ながら言った。緑の木々が、流れるように過ぎていく。
「シオンが幼い頃、一度だけ来たことがあるわ。あの時は、まだ赤ん坊だったけど」
「覚えてる、母様」
シオンが言った。
「祖父様と一緒に——」
シオンは、言葉を詰まらせた。祖父様。ソロン。もう、この世界にはいない人。
ケイルが、シオンの肩に手を置いた。父の手は、温かかった。
「……父上に、会いに行こう」
「はい……」
*
ミストリアの入口。
白い霧が、薄く漂っていた。まるで、里を守る結界のように。
門番が、馬車を止めた。槍を構え、警戒の目を向ける。
「どなたですか——おお!」
門番は、馬車から降りてきたティアを見て目を見開いた。
「ティア様! お帰りなさいませ!」
「ただいま」
ティアは、微笑んだ。故郷に戻った安堵が、その表情に滲んでいる。
「シオンも一緒よ。それに、シオンのご両親も」
「シオン様……! お待ちしておりました!」
門番は、深く頭を下げた。
「どうぞ、お入りください。長老が、お待ちです」
*
里の中を、シオンたちは歩いていた。
木造の家々が立ち並び、炊事の煙が立ち上っている。子供たちの笑い声が、どこからか聞こえてくる。
すれ違う人々が、シオンを見て頭を下げる。
「シオン様……!」
「お帰りなさい……!」
「ソロン様のご冥福を、お祈りしております……」
シオンは、一人一人に頭を下げ返した。
「皆さん、ありがとうございます」
ティアが、小声で言った。
「シオンは、この里の英雄だから。ソロン様と一緒に、世界を救った」
「英雄なんかじゃない……」
「英雄よ。この里を救った。帝国の兵士から守ってくれた。そして——世界を救った」
シオンは、何も言えなかった。
*
トーマス長老の屋敷。
古い木の香りが漂う、落ち着いた佇まいの建物。
長老は、シオンたちを温かく迎えた。白髪の老人だが、その目には鋭い光が宿っている。
「シオン殿。よく来てくれた」
「長老……お元気そうで、何よりです」
「わしは頑丈でな。あの戦いの傷も、もう治った。里の者も、皆元気だ」
長老は、ケイルとミラに頭を下げた。
「アーデン家の皆様。ようこそ、ミストリアへ」
「こちらこそ、お世話になります」
ケイルが言った。
「息子が——何度も、この里に助けられました」
「何を言われる。シオン殿は、この里の恩人だ。ソロン様と共に、この里を——そして世界を救ってくださった」
*
「さて——」
長老は、立ち上がった。
「ソロン様の墓参りを、されるのでしょう」
「はい」
「ご案内しましょう」
長老は、シオンたちを連れて屋敷を出た。
「ソロン様の墓は、里の奥の丘にある。最も見晴らしの良い場所だ。里を一望でき、遠くには秘境の山々も見える」
「……ありがとうございます」
「ソロン様は、この里を愛しておられた。シオン殿を連れて逃げてきた時も、修行の時も、いつも里のことを気にかけておられた。だから——ここで眠っていただくことにした」
*
丘の上。
風が、穏やかに吹いていた。草花が揺れ、遠くで鳥が鳴いている。
そこに、一つの墓石があった。苔むした石に、丁寧に刻まれた文字。
「ソロン・アーデン ここに眠る」
シオンは、墓石の前に立った。
胸が、締め付けられるようだった。目頭が熱くなる。
「祖父様……」
シオンは、膝をついた。
そして、手を合わせた。
*
ケイルとミラも、シオンの隣に膝をついた。
「父上……」
ケイルは、目を閉じた。声が、かすかに震えている。
「長い間、私たちを守ってくださり、ありがとうございました。シオンを、立派に育ててくださった」
「お義父様……」
ミラも、手を合わせた。涙が、頬を伝っている。
「シオンを、立派に育ててくださり、ありがとうございました。あの子は——あなたの孫として、胸を張れる人間になりました」
ティアは、少し離れた場所で見守っていた。
フェリアも、静かに立っていた。帝国との戦いで命を落とした戦士たちのことを、思い出しているのかもしれない。
*
しばらくの沈黙の後、シオンが口を開いた。
「祖父様……」
シオンの声は、かすかに震えていた。
「僕は……祖父様の教えを、忘れません」
風が、吹いた。草花が揺れ、花びらが舞い上がる。
「時の秘術を、正しく使います。人を守るために。世界を守るために」
シオンは、深く頭を下げた。
「祖父様が守ってくれたこの世界を——僕は、大切にします。必ず」
風が、また吹いた。
まるで、ソロンが答えているかのようだった。
*
「シオン」
ケイルが言った。
「父上は——お前を、誇りに思っていた」
「父様……」
「最後まで、お前のことを話していた。『シオンは、私を超える』と。『あの子には、私にはないものがある。人を信じ、人を動かす力が』と」
シオンの目から、涙が溢れた。
「祖父様……」
「だから、胸を張れ。シオン」
ケイルは、シオンの肩を抱いた。
「お前は、父上の期待に応えた。立派に、成長した」
「父様……」
シオンは、父の胸で泣いた。久しぶりに、子供のように泣いた。
* * *
一年の月日が流れた。
かつての帝国は、大きく姿を変えようとしていた。
*
王都——いや、今は「首都」と呼ばれる街。
その中心にある広場に、大勢の人々が集まっていた。
貴族も、平民も、商人も、職人も。老人も、子供も。
そして——かつての「留学生」たちも。
広場は、人々の熱気で溢れていた。
「ついに、この日が来たんだな……」
リアムが呟いた。感慨深げに、広場を見渡している。
「ああ……」
シオンが頷いた。
「長かったような、短かったような——」
*
壇上に、フリードリヒが立った。
一年前とは違う——王冠のない、簡素な正装姿だった。金髪が風に揺れ、青い瞳が群衆を見つめている。
「皆の者」
フリードリヒの声が、広場に響いた。若いが、堂々とした声。
「今日、この日をもって——王政は終わりを告げる」
群衆が、息を呑んだ。静寂が、広場を包む。
「そして——新たな国が、誕生する」
フリードリヒは、深く息を吸った。
「この国の名は——ヴァレンティア共和国!」
*
歓声が、爆発した。
まるで堰を切ったように、喜びの声が広場を満たす。
「ヴァレンティア共和国万歳!」
「新しい国の誕生だ!」
「自由の国、アルバ!」
人々は、抱き合い、涙を流した。見知らぬ者同士が、手を取り合って喜んでいる。
長い圧政の時代が、ついに終わったのだ。
*
「アルバ——『暁』という意味だ」
フリードリヒが続けた。
「闇の時代は終わり、新しい朝が始まる。この名に込めた願いだ」
群衆が、静かに聞いていた。
「この国は、王が支配する国ではない。民が、自らの手で国を動かす国だ」
フリードリヒの目が、群衆を見渡した。
「そのために——議会を設立する。各地域から選ばれた代表が、話し合いで国を導く」
*
「そして——」
フリードリヒは、シオンを壇上に招いた。
「この国の最初の議長として——シオン・アーデンを推挙する」
群衆が、どよめいた。
シオンは、驚いて足を止めた。
「フリードリヒ……」
「壇上に来い、シオン」
フリードリヒは、微笑んだ。
「これは、議会の総意だ。お前を議長に推す声は、圧倒的だった。お前が、この国を救った。お前が、この国の未来を切り開いた」
*
シオンは、ゆっくりと壇上に上がった。
大勢の視線が、シオンに集まっている。期待と、希望に満ちた目。
「シオン・アーデン」
フリードリヒが言った。
「この国を、民と共に導く覚悟はあるか」
シオンは、深く息を吸った。
群衆を見渡した。
ティアが、リアムが、エリカが、ハンスが、ルイーザが——
みんなが、シオンを見ていた。笑顔で、頷きながら。
「……はい」
シオンは、頷いた。
「僕は——この国を、みんなと一緒に、より良い国にしていきたい」
*
歓声が、再び湧き上がった。
「シオン議長万歳!」
「ヴァレンティア共和国万歳!」
シオンは、照れくさそうに手を振った。
「議長なんて……大げさだな……」
「大げさじゃないわ」
ティアが、壇上に上がってきた。
「シオンは、この国を変えたの。みんな、それを知っている」
「ティア……」
「誇りに思って。シオン」
ティアは、シオンの手を握った。
シオンは、ティアを見つめた。幼い頃から、ずっと一緒にいた少女。
「ありがとう……ティア……」
*
式典の後、シオンは群衆の中に降りていった。
多くの人々が、シオンに声をかけた。
「議長殿、期待しております」
「私たちの声を、聞いてください」
「新しい国を、よろしくお願いします」
シオンは、一人一人に答えた。
「はい。皆さんの声を、大切にします」
「一緒に、この国を作っていきましょう」
*
夕暮れ時。
シオンは、フリードリヒと二人で、広場を見下ろしていた。夕日が、街を赤く染めている。
「フリードリヒ」
「何だ」
「お前は、本当にこれで良かったのか。王になる道を捨てて」
フリードリヒは、微笑んだ。
「良かったさ。これで」
「でも——」
「シオン。私は、父のようにはなりたくなかった」
フリードリヒは、空を見上げた。茜色の空が、どこまでも広がっている。
「権力に縛られ、闇に操られる——そんな人生は、嫌だった」
「……」
「今の私は、自由だ。自分の意志で、この国のために働ける」
フリードリヒは、シオンを見た。
「それは、王冠よりも価値があるものだ」
シオンは、深く頷いた。
「……わかった。フリードリヒ」
*
「それに——」
フリードリヒが言った。
「議会の一員として、私も働くさ。お前の下でな」
「え……」
「何だ、嫌か?」
「いや……嬉しいよ」
シオンは、微笑んだ。
「一緒に、頑張ろう。フリードリヒ」
「ああ。任せろ」
二人は、固く握手を交わした。
*
その夜。
シオンは、窓から夜空を見上げていた。
「祖父様……」
シオンは、懐中時計を握りしめた。
「ヴァレンティア共和国が、誕生しました。王政ではなく、民が主役の国です」
星が、瞬いていた。無数の光が、夜空を飾っている。
「僕は——この国の議長になりました。不安もありますが……頑張ります」
シオンは、微笑んだ。
「祖父様が守ってくれたこの世界を——僕たちは、もっと良い場所にします」
風が、窓から吹き込んできた。
温かい風だった。
「見守っていてください……祖父様……」
新しい国、ヴァレンティア共和国。
その誕生の日は、希望に満ちていた。
第三十九章 了
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