第三十三章 祖父の帰還
空が裂けた。
そう見えた。
黒い雲の隙間から、一条の光が差し込んできた。
銀色の光。三日月の光だった。
その光は、闇を切り裂くように真っ直ぐに降り注いでいる。
「……来たか……」
クロノスが、空を見上げた。
その目に、かすかな興味が浮かんだ。
「……大賢者の血を引く者……」
*
光の中から、人影が現れた。
白い髪、白い髭。風に揺れる袖。歳を重ねた体だが、背筋は真っ直ぐに伸びている。
しかし、その目には若者のような鋭さがあった。
「シオン!」
ソロンが、地上に降り立った。着地は軽やかで、音もなく。
「祖父様……!」
シオンは、駆け寄ろうとした。
しかし、体がよろめいた。力が入らない。
ソロンが、シオンを支えた。温かい腕が、疲れ切った体を受け止める。
「よく耐えた。シオン」
「祖父様……僕……僕は……」
「わかっている。何も言うな」
ソロンは、シオンの頭を撫でた。幼い頃と同じように、優しく。
「お前は、よくやった」
シオンの目から、涙が溢れた。
*
ソロンの後ろから、次々と人影が現れた。
黒い装束を纏った戦士たち。月明かりの下で、その姿は影のように揺らめいている。
ミストリアの精鋭だった。
「トーマス長老……!」ティアが叫んだ。
白髪の老人が、静かに頷いた。皺だらけの顔に、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「約束を果たしに来た。シオン殿」
「長老……」
「我らは、命を懸けてお前を守ると誓った。その誓いは、今も変わらぬ」
戦士たちが、シオンの周りに展開した。
その数は、五十を超えていた。黒い影が、大地を埋め尽くすように広がっている。
*
「ティア!」
声が聞こえた。聞き覚えのある、懐かしい声。
ティアは、振り向いた。
そこに——
「母様……!」
フェリアが、立っていた。
その手には、二振りの刀が握られている。月光を受けて、刃が銀色に輝いている。
「無事だったか……よかった……」
「母様、どうして……傷は……」
「治った。もう戦える」
フェリアは、ティアの肩を叩いた。力強く、しかし優しく。
「お前が心配で、じっとしていられなかった」
「母様……」
「一緒に戦おう。ティア。私たちは、ミストリアの戦士だ」
ティアは、目を潤ませながら頷いた。
「……うん」
*
クロノスは、増えた人数を見下ろした。
「……これが、お前たちの援軍か……」
その声には、嘲笑が混じっていた。
「……たかだか数十人の人間が増えたところで……何が変わる……」
ソロンが、前に進み出た。
「クロノス・アビサル」
「……久しいな……大賢者の血族よ……」
「お前を止めに来た」
「……止める?……」クロノスは笑った。「……お前にそれができるのか……あの男にすらできなかったことが……」
「アルバートのことか」
「……そうだ……お前の先祖だ……」
クロノスの目が、過去を見るように細められた。
「……あの男は、我を封印した……しかし、滅ぼすことはできなかった……」
「ならば、私たちがそれを成し遂げる」
ソロンの左手が、光を帯びた。
月影の刻印。
その輝きが、夜を照らした。銀色の光が、闇を押し返すように広がっていく。
*
「祖父様」シオンが言った。「僕も戦う」
「シオン……お前は——」
「僕のせいで、クロノスは復活した。だから、僕には責任がある」
シオンの右手が、光を帯びた。
陽光の刻印。
二つの光が、並んで輝いた。金と銀。昼と夜。相反するようでいて、互いを補い合う光。
「……ほう……」
クロノスが、興味深そうに見下ろした。
「……太陽と三日月……あの男が持っていた二つの力が、今は二人に分かれているのか……」
「そうだ」ソロンが言った。「そして、二つの力が合わさる時——」
「……黄昏の蝕……」クロノスが呟いた。「……あの男が、我を封じた術か……」
「知っているか」
「……忘れるはずがない……」
クロノスの声に、かすかな怒りが混じった。
「……あの屈辱を……何千年もの間、我は忘れたことがない……」
*
「ソロン様」トーマス長老が近づいてきた。「準備は整いました」
「長老。すまない、危険な戦いに巻き込んで」
「何を言われる。我らは、自らの意志でここに来た」
トーマス長老は、クロノスを見上げた。老いた目に、揺るぎない決意が宿っている。
「あの神を倒せるかどうかはわからぬ。しかし、戦わずに滅びるよりは、戦って滅びる方がましだ」
「……ありがとう」
ソロンは、深く頭を下げた。
そして、シオンに向き直った。
「シオン。これから、お前に大切なことを教える」
「何を……」
「黄昏の蝕の発動方法だ」
シオンは、息を呑んだ。
*
ソロンは、静かに語り始めた。
「陽光の刻印と月影の刻印。この二つの力が合わさる時、時間は暴走を始める」
「時間の暴走……」
「そうだ。かつてアルバートは、この暴走した時間の力で、クロノスを封印した」
ソロンは、シオンの目を見つめた。
「しかし今、砂時計は砕けている。封印の器はない」
「なら……どうするの……」
「暴走した時間の力で、クロノスを——異世界に飛ばす」
シオンは、目を見開いた。
「異世界……」
「時間の暴走は、空間の歪みを生む。その歪みを利用して、クロノスをこの世界から追放するんだ」
「そんなことが……できるの……」
「理論上は可能だ。しかし——」
ソロンの表情が、曇った。
*
「しかし、何だ。祖父様」
「……制御が、極めて難しい」
ソロンは言った。
「暴走した時間の力は、発動者自身をも飲み込む可能性がある」
「飲み込む……?」
「異世界に、一緒に飛ばされるかもしれない、ということだ」
シオンは、血の気が引いた。
「そんな……」
「だから、シオン。私が力の制御を担当する。お前は、力を供給することだけに集中しろ」
「でも、それじゃ祖父様が——」
「私は構わない」
ソロンは、穏やかに笑った。皺の刻まれた顔に、慈愛が浮かんでいる。
「私はもう十分に生きた。お前たちには、まだ未来がある」
「祖父様……!」
「シオン。これは、私の選択だ」
*
ティアが、二人の会話を聞いていた。
「待って」
ティアが、前に出た。
「ソロン様が異世界に飛ばされるなんて、認められない」
「ティア——」
「私にも、何かできることはないの?」
ソロンは、ティアを見つめた。
そして——
「……三日月の加護……」
「え……?」
「ヴィクターが言っていたな。ティア、お前には三日月の加護がある、と」
ティアは、思い出した。
ヴィクターが、クロノスの命令で自分を見逃した時のことを。
「それは……何なの……」
「私にもわからない。しかし——」
ソロンは、ティアの額に手を当てた。
しばらく目を閉じ——
そして、目を見開いた。
「……なんと……」
*
「何がわかったの、ソロン様」
「ティア。お前の中にも、紋章がある」
「紋章……?」
「月影の刻印。ただし、まだ目覚めていない」
ティアは、驚愕した。
「どうして……私は、賢者の一族じゃないのに……」
「おそらく、幼い頃の冒険で——シオンと一緒にいた時間が長かったからだろう」
ソロンは言った。
「シオンの陽光の刻印が、無意識のうちにお前に影響を与えた。そして、対になる月影の刻印の種が、お前の中に芽生えたのだ」
「そんなことが……」
「時の力は、不思議なものだ。絆によって、力は伝わる」
ソロンは、ティアの手を取った。
「ティア。お前が力を使えば、私とシオンの負担を軽減できるかもしれない」
「私が……」
「やってみるか」
ティアは、しばらく黙っていた。
そして——
「やる」
ティアは、決意を込めて言った。黒い瞳に、炎のような光が宿っている。
「シオンを守るためなら、何でもする」
*
クロノスが、空から三人を見下ろした。
「……面白い……三人の紋章使いか……」
その声には、かすかな緊張が混じっていた。
「……だが、結果は変わらない……」
クロノスは、両腕を広げた。
「……さあ、始めよう……最後の戦いを……」
シオン、ソロン、ティアは、並んで立った。
三つの光が、夜空に輝いた。
太陽と、三日月と、もう一つの三日月。
最終決戦が、始まろうとしていた。
第三十三章 了
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