第三十二章 クロノスの復活
クロノス・アビサルは、空に浮かんでいた。
その姿は、想像を絶するものだった。
漆黒の衣は、まるで夜空そのものでできているかのようだった。無数の星々が瞬き、流れ、渦を巻いている。宇宙を纏った神。
燃えるような赤い目は、憎悪と狂気に満ちていた。何千年もの恨みが、その瞳の奥で燃え続けている。
「……素晴らしい……」
クロノスは、両腕を広げた。
「……この感覚を、どれほど待ち望んでいたことか……」
クロノスの体から、黒い力が溢れ出した。
その力は、空を覆い、大地を震わせた。学院の建物が軋み、窓ガラスが砕ける。
*
「なんて……力だ……」
リアムが、膝をついた。立っていることすらできない。
クロノスから放たれる圧力は、息をすることすら困難にさせた。空気が重く、体が地面に押しつけられるような感覚。
「これが……時の神の力……」エリカが、震える声で言った。
「僕たちは……こんなものと、戦わなければならないのか……」ハンスが絶望的な声を上げた。
ルイーザは、気を失いかけていた。銀色の髪が地面に広がり、顔は蒼白だ。
「……霊魂が……悲鳴を上げている……世界中の、死者たちが……」
ティアは、シオンの傍らに駆け寄った。
「シオン……シオン、しっかりして……!」
シオンは、地面に倒れたまま動けなかった。
全身の力が、抜けていた。指一本動かすことすら、困難だ。
*
クロノスは、地上を見下ろした。
「……人間どもよ……」
その声は、空気を震わせた。帝国全土に響き渡るほどの声量。
「……我は、かつてお前たちに裏切られた……」
クロノスの目が、怒りに燃えた。赤い光が、さらに強くなる。
「……我は、時を司る神だった……世界の理を守り、すべての命に平等な時を与えていた……」
クロノスは、腕を振った。
空に、映像が浮かび上がった。魔法の幻影。
それは——遥か昔の記憶だった。
*
映像の中で、クロノスは穏やかな表情をしていた。
人々と共に歩き、笑い、時の恵みを与えていた。子供たちと遊び、老人たちに安らかな眠りを与えていた。優しい神。人間を愛する神。
「……我は、人間を愛していた……」
しかし、映像が変わった。
他の神々が、人間たちと密談している。暗い部屋。陰謀の匂い。
「時の神の力を奪え」「その力があれば、我々は永遠に君臨できる」「人間にも分け前を与えれば、喜んで協力するだろう」
そして——
人間と神々が、クロノスに襲いかかった。
「……裏切られた……我を愛していると言っていた者たちに……」
映像の中のクロノスが、倒れた。
その体から、力が奪われていく。苦痛に歪んだ顔。絶望の叫び。
「……そして、我は封印された……何千年もの間……」
映像が、消えた。
*
「……憎い……」
クロノスの声が、低く響いた。大地が震える。
「……人間が、神が、この世界が……すべて、憎い……」
クロノスの体から、さらに強大な力が溢れ出した。黒い霧が広がり、空を覆っていく。
「……だから、我は決めた……」
クロノスは、腕を振り上げた。
「……この世界を——『無』に帰す……」
シオンたちは、絶句した。
「無に……帰す……?」
「……そうだ……」クロノスは笑った。「……時を止める……永遠に……」
「そんなことをしたら……」
「……すべてが、消える……」クロノスは言った。「……人間も、神も、世界も……何もかもが、存在しなくなる……」
「狂ってる……」
フリードリヒが、震える声で言った。
「……そうかもしれない……」クロノスは認めた。「……だが、もう止められない……我の憎悪は、何千年もの間、膨れ上がり続けた……」
クロノスは、シオンを見下ろした。
「……そして、お前がその憎悪を解放したのだ……大賢者の子孫よ……」
*
シオンは、クロノスを見上げた。
体は動かない。
力は残っていない。
しかし——
「……ごめん……」
シオンは、呟いた。声が掠れている。
「……僕のせいで……こんなことに……」
「シオン……!」ティアが叫んだ。「あんたのせいじゃない……!」
「いや……僕のせいだ……」
シオンは、涙を流した。頬を伝い、地面に落ちていく。
「……僕が力を使わなければ……砂時計は壊れなかった……」
「……正直な子だ……」
クロノスが、嘲笑った。
「……そうだ……すべては、お前のせいだ……お前が、我を解放した……お前が、世界を滅ぼすのだ……」
シオンは、絶望に沈んでいった。
*
その時——
遠くから、声が聞こえた。
「……シオン……」
聞き覚えのある声。温かく、力強い声。
「……諦めるな……シオン……」
シオンは、顔を上げた。
「……祖父様……?」
ポケットの懐中時計が、光っていた。
ソロンとの繋がりを示す「印」が、輝いている。銀色の光が、闇の中で温かく瞬いている。
「……私は、今から向かう……ミストリアの者たちと共に……」
ソロンの声が、シオンの心に響いた。
「……だから、諦めるな……時間を稼げ……お前なら、できる……」
シオンは、懐中時計を握りしめた。
「……祖父様……」
「……シオン……お前は、私の誇りだ……」
ソロンの声が、途切れた。
しかし、その言葉はシオンの心に刻まれた。
*
シオンは、ゆっくりと立ち上がった。
「……シオン……?」ティアが言った。
「……まだ、終わってない……」
シオンは、クロノスを見上げた。体が震えている。しかし、目には光が戻っていた。
「……クロノス……僕は、お前を止める……」
クロノスは、笑った。
「……止める? お前が? その力の残りかすで?……」
「……それでも、やる……」
シオンの目に、再び光が戻った。絶望を超えた、決意の光。
「……僕には、仲間がいる……祖父様が来てくれる……だから——」
シオンは、陽光の刻印に意識を集中させた。僅かに残った力を、掻き集める。
「——時間を稼ぐ!」
*
クロノスは、面白そうにシオンを見下ろした。
「……興味深い……お前は、諦めないのか……」
「……諦めない……」
「……なぜだ……勝ち目はないというのに……」
「……約束したからだ……」
シオンは言った。
「……ティアに……リアムに……みんなに……必ず戻ると、約束した……」
シオンは、仲間たちを見回した。
「……だから、僕は諦めない……」
クロノスは、しばらく黙っていた。何かを考えているような沈黙。
そして——
「……面白い……」
クロノスは、腕を下ろした。
「……いいだろう……少しだけ、待ってやる……」
「……何……?」
「……お前の祖父が来るのを、待ってやろう……」
クロノスの目が、残酷に光った。
「……その方が、絶望が深まる……希望を与えてから、叩き潰す……それが、最も美しい復讐だ……」
シオンは、歯を食いしばった。
——祖父様……早く来てくれ……
空には、黒い雲が渦巻いていた。
世界の終わりが、迫っていた。
第三十二章 了
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