第三章 初めての魔物遭遇
魔物は、ゆっくりと丘を登ってきた。
その動きには、獲物を追い詰める捕食者の余裕があった。急ぐ必要などないと言わんばかりに、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。黒い体毛は夜闇のように光を吸い込み、赤い目だけが爛々と輝いていた。逃げられないことを、魔物自身が理解しているかのようだった。
「逃げるわよ!」
ティアが叫び、シオンとリアムの腕を掴んで走り出した。しかし、丘の反対側は急な斜面になっており、駆け下りることは不可能だった。岩が突き出し、足を滑らせれば谷底まで転がり落ちてしまう。
「こっちも無理だ!」リアムが叫んだ。声が震えている。
三人は丘の頂上で、完全に追い詰められていた。
魔物は距離を詰め、十歩ほどの位置で立ち止まった。低い唸り声を上げながら、三人を品定めするように見つめている。その赤い目には、単なる獣には見られない知性の光が宿っていた。ただの野生の獣ではない。獲物を恐怖させ、弄ぶことを楽しんでいるのだ。口元から涎が滴り落ち、鉤爪が地面を引っ掻いた。
「私が時間を稼ぐ」ティアが木刀を構えた。声は震えていたが、眼差しは真っ直ぐに魔物を捉えていた。「二人は、何とか逃げ道を探して」
「ティア、無茶だよ!」シオンが叫んだ。
「黙って! あんたたちを連れてきたのは私なんだから、私が責任を取るの!」
ティアは魔物に向かって一歩踏み出した。その手は震えていたが、目には決意の光が宿っていた。里の戦士の娘として、ここで退くわけにはいかない——その覚悟が、小さな背中に見えた。
魔物が低く唸った。獲物が自ら前に出てきたことに、興味を示したようだ。そして次の瞬間、地面を蹴った。
黒い影が、恐ろしい速さでティアに迫る。
「——っ!」
ティアは木刀を振り上げ、魔物の爪を受け止めた。激しい衝撃が腕を痺れさせたが、彼女は踏みとどまった。足が地面にめり込むほどの重さ。それでも、歯を食いしばって耐えた。
「霧隠流——」
ティアは体を回転させ、魔物の脇腹を狙って木刀を振り抜いた。里に代々伝わる武術の型だ。風を切る音と共に、木刀が魔物の鱗に当たり、鈍い音を立てた。
しかし、魔物は怯まなかった。まるで小石でも当たったかのように、平然としている。
「効いてない……!」
魔物は尾を振り、ティアを弾き飛ばした。彼女の体が宙を舞い、地面を転がり、丘の縁で辛うじて止まった。一歩踏み外せば、崖下に落ちていた。
「ティア!」シオンとリアムが同時に叫んだ。
「大丈夫……まだ、やれる」
ティアは立ち上がろうとしたが、右腕が上がらなかった。魔物の尾の一撃で、肩を痛めたようだった。顔が苦痛に歪む。
魔物は再びティアに向かって歩み始めた。今度は、仕留めるつもりだ。赤い目が、獲物を見据えて細められる。
*
「やめろ!」
シオンは考えるより先に、魔物の前に飛び出していた。自分が何をしているのか、頭では理解していなかった。体が勝手に動いたのだ。
「シオン、何してるの! 逃げなさい!」ティアが叫んだ。
しかし、シオンは動かなかった。動けなかったのではない。動く気がなかったのだ。
友達が傷つけられようとしている。それを見て逃げることなど、できるわけがなかった。王都では「アーデン家の跡取り」として、常に守られる立場だった。しかし今、この瞬間だけは、自分が守る番だ。
魔物はシオンを見下ろした。小さな獲物が自ら前に出てきたことに、興味を示したようだった。赤い目が、品定めするようにシオンを見つめる。
「来るなら来いよ……!」
シオンは拳を握りしめた。武器もない。戦う術も知らない。しかし、ここで退くわけにはいかなかった。心臓が破裂しそうなほど早く鳴っていた。足が震えていた。それでも、一歩も退かなかった。
魔物が前足を振り上げた。鉤爪が鈍く光る。
その爪が、シオンに向かって振り下ろされる——
その瞬間だった。
シオンの視界が、歪んだ。
世界が、急に遅くなったように感じた。魔物の爪が、まるで水中を進むかのように、ゆっくりと落ちてくる。風に揺れる草の葉が、静止しているかのように見えた。鳥の鳴き声が、引き伸ばされたように響く。自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。ドクン、ドクン、と。
——何だ、これは。
シオンは自分の手を見た。右の掌に、淡い光が灯っていた。太陽のような、金色の光。温かい。熱い。体の奥から湧き上がってくる、不思議な力。
それは、彼の中に眠っていた何かが、初めて目を覚ました瞬間だった。
「……動け!」
シオンは本能的に横に飛んだ。魔物の爪が、彼がいた場所を抉った。土が舞い上がり、草が切り裂かれた。
世界が、元の速度に戻った。
「シオン!?」リアムが驚愕の声を上げた。「今、どうやって……あの爪、絶対当たってたはずなのに……」
「わからない……でも、今は関係ない!」
シオンは立ち上がり、魔物を睨みつけた。先ほどの不思議な感覚は消えていたが、彼の中で何かが変わっていた。恐怖よりも、戦う意志が勝っていた。
*
「リアム! 何か使えるものはない!?」シオンが叫んだ。
「えっ? あ、ああ!」
リアムは慌てて周囲を見回した。商人の息子として培った観察眼が、状況を素早く分析する。さっきまで震えていた目が、今は鋭く光っていた。
——光る植物。結晶の川。巨大なキノコ。
そして、彼の目が、一つのものを捉えた。
「あのキノコ!」リアムが指差した。「さっき見た紫色のやつ、触ったら胞子が飛んだよね!」
「胞子?」
「目くらましに使えるかもしれない! ティア、投げられる?」
ティアは痛む肩を押さえながら、リアムが指差すキノコを見た。丘の斜面に、紫色に光る巨大なキノコが生えている。秘境特有の、不思議な植物だ。
「やってみる……!」
ティアは左手で木刀を握り、キノコに向かって投げつけた。痛みに顔を歪めながらも、その腕は正確だった。木刀がキノコの傘に当たると、紫色の胞子が大量に舞い上がった。煙幕のように、空気中に広がっていく。
「今だ! 魔物の顔に!」
リアムは地面から石を拾い、胞子の雲に向かって投げた。シオンも続いて石を投げる。二人の石が、胞子を纏って魔物の顔面に命中した。
「ギャアアアッ!」
魔物は初めて苦痛の声を上げた。紫色の胞子が目に入り、視界を奪われたのだ。魔物は頭を振り、前足で顔を掻きむしり始めた。苦悶の唸り声を上げながら、めちゃくちゃに暴れている。
「今のうちに逃げるわよ!」ティアが叫んだ。
「待って!」シオンが言った。脳裏に、ある考えが閃いた。「このまま逃げても、追いつかれる。今のうちに、とどめを刺さないと」
「でも、どうやって……」
シオンは周囲を見回した。そして、丘の縁に転がっている大きな岩に目を留めた。子供の背丈ほどの大きさがあり、不安定に縁に乗っている。
「あの岩を落とす! 三人で押せば、動くかもしれない!」
三人は岩に駆け寄った。岩は子供の背丈ほどの大きさがあり、とても一人では動かせそうになかった。苔むした表面は、手を置くと冷たく湿っていた。
「せーの!」
三人は力を合わせて岩を押した。ティアは片腕しか使えなかったが、歯を食いしばって押し続けた。顔が苦痛に歪んでいる。
岩が、わずかに動いた。
「もう一回!」
再び押す。岩がぐらりと揺れた。土埃が舞い上がる。
魔物は胞子の影響から回復しつつあった。赤い目が再び三人を捉え、怒りの唸り声を上げた。さっきよりも凶暴な、殺意に満ちた声だ。
「来る!」リアムが叫んだ。
「あと少し……!」
三人は最後の力を振り絞った。シオンの手のひらに、再び金色の光が灯った。今度は意識的に。
——動け……!
岩が、ついに転がり始めた。
魔物は三人に向かって跳躍した。その瞬間、巨大な岩が斜面を転がり落ち、魔物の体に激突した。
「ギャアアアアッ!」
魔物は岩と共に丘を転がり落ち、谷底へと消えていった。落下する音と、岩がぶつかる音と、魔物の悲鳴が重なり合った。
しばらくの間、谷底から断続的な音が聞こえていたが、やがて静寂が訪れた。風の音だけが、残った。
*
三人は、丘の上に座り込んでいた。誰も、しばらく口を開けなかった。荒い息だけが、静寂を破っている。
最初に沈黙を破ったのは、リアムだった。
「……勝った、のか?」
「たぶん……」シオンが答えた。声がかすれている。
三人は顔を見合わせた。そして、同時に笑い出した。
緊張が解けたせいだろう。可笑しくて笑っているわけではなかった。ただ、生きていることが嬉しくて、笑わずにはいられなかったのだ。涙が滲んでいた。震えが止まらなかった。それでも、笑いが止まらなかった。
「馬鹿みたい」ティアが涙を拭いながら言った。声が震えている。「本当に、死ぬかと思った」
「僕も」リアムが頷いた。「足が震えて止まらなかった。今も、まだ震えてる」
「僕なんか、何も考えられなかったよ」シオンが言った。「ただ、ティアが傷つくのが嫌で、体が勝手に動いた」
ティアはシオンを見た。その目には、いつもの棘がなかった。
「……ありがとう。あんたが前に出てくれなかったら、私、やられてた」
「ティアこそ、最初に戦ってくれたじゃないか」
「リアムのキノコ作戦も凄かった」ティアが続けた。「よくあんなこと思いついたわね」
「商人は観察が命だからね」リアムは照れくさそうに笑った。「でも、最後の岩を思いついたのはシオンだし、押す力があったのはティアのおかげだよ」
三人は再び顔を見合わせた。
一人では、絶対に勝てなかった。三人の力が合わさったから、魔物を倒すことができたのだ。
「ねえ」シオンが言った。「さっき、僕の手が光ったの、見た?」
「見た」リアムが頷いた。「それに、シオンの動き……なんか、急に速くなったように見えた。いや、速くなったんじゃなくて、魔物が遅くなったみたいな……」
「私も見たわ」ティアが言った。「あれ、何だったの?」
「わからない」シオンは自分の右手を見つめた。今は何の変化もない、普通の手だ。しかし、あの瞬間、確かに何かが起きた。「でも、あの時、世界がゆっくりになったように感じたんだ。それで、魔物の攻撃を避けられた」
「魔法……?」リアムが首を傾げた。
「たぶん」シオンは頷いた。「おじいさんは、僕にも魔法の才能があるかもしれないって言ってた。もしかしたら、あれがそうなのかも」
「凄いじゃない」ティアが言った。声に、純粋な感嘆が込められていた。「それ、使いこなせるようになったら、もっと強くなれるよ」
「うん……でも、どうやって使うのか、全然わからない」
シオンはもう一度、自分の手を見つめた。あの瞬間、確かに何かが目覚めた。それが何なのかはわからないが、彼の中に新しい力が宿ったことは間違いなかった。
*
「とにかく」ティアが立ち上がった。「帰ろう。これ以上ここにいたら、また魔物が来るかもしれない」
「そうだね」リアムも立ち上がった。「それに、僕の父さんが心配してるかも」
三人は来た道を戻り始めた。
帰り道、三人は互いの手を繋いでいた。誰が言い出したわけでもなく、自然とそうなっていた。ティアの右手はシオンと繋がり、左手はリアムと繋がっている。温かい。生きている証だ。
「ねえ」リアムが歩きながら言った。「僕たち、約束しようよ」
「何を?」
「いつか、また会おうって。そして、また一緒に冒険しようって」
シオンは頷いた。「うん、約束する」
「私も」ティアが言った。「あんたたちとなら、また冒険してもいいわ。……でも、次はもう少し安全な場所にしてよね」
三人は笑った。
光る森を抜け、普通の森へ戻る頃には、太陽は高く昇っていた。木漏れ日が三人を照らし、どこかで鳥が歌っている。さっきまでの恐怖が、嘘のように遠く感じられた。
恐ろしい体験だった。死ぬかと思った。しかし、三人の心には、恐怖よりも大きな喜びがあった。
自分たちの力で、困難を乗り越えた。一人ではできなかったことを、三人でやり遂げた。
それは、七歳のシオンにとって、初めての「勝利」だった。
*
里に戻ると、大騒ぎになっていた。
「シオン! ティア!」
フェリアとソロンが、血相を変えて駆け寄ってきた。フェリアの顔は青ざめ、ソロンの目には深い心配が浮かんでいた。
「どこに行っていたの! 探したのよ!」フェリアがティアを抱きしめた。その腕が震えている。「その腕、どうしたの……!」
「ごめんなさい、母さん……」ティアは俯いた。
ソロンはシオンの顔を見て、何かを察したようだった。彼は孫の前にしゃがみ込み、真剣な目で尋ねた。
「シオン、正直に言いなさい。何があった?」
シオンは祖父の目を見つめた。嘘をつくことはできなかった。あの深い瞳は、すべてを見通しているように感じられた。
「……秘境に行った。そしたら、魔物が出て……」
「魔物だと!?」
周囲の大人たちがざわめいた。「秘境に」「子供だけで」「無事だったのか」——声が重なり合う。
「三人で戦って、なんとか倒した」シオンは続けた。声が震えたが、最後まで言い切った。「でも、ティアが怪我をした。僕のせいだ。僕が、秘境に行きたいって言ったから……」
「違うわ」ティアが口を挟んだ。「私だって、行きたかった。シオンだけのせいじゃない」
「僕も同罪だよ」リアムも進み出た。「地図を見つけて、二人を誘ったのは僕だ」
三人は並んで立ち、大人たちの前で頭を下げた。
「本当に、すみませんでした」
フェリアとソロンは顔を見合わせた。しばらくの沈黙が流れた。重い空気。しかし、その中に、怒りだけではない何かが混じっているように感じられた。
「……怪我はあるか?」ソロンが口を開いた。
「ティアの肩が……」シオンが答えた。
「他には?」
「ない。三人とも、無事だ」
ソロンは深く息を吐いた。安堵と、怒りと、そして何か別の感情が入り混じった息だった。そして、シオンの頭に手を置いた。
「よく生きて帰ってきた」
その言葉に、シオンは目を見開いた。怒られると思っていたのだ。
「秘境に行ったことは、許されることではない」ソロンは厳しい声で言った。「しかし、魔物を倒して戻ってきたことは、褒めてやる」
フェリアもティアを見つめた。
「……怪我が治ったら、みっちり説教するからね」
ティアは苦笑いを浮かべた。「……はい」
リアムの父親も駆けつけてきて、息子を抱きしめた。恰幅の良い体が、震えていた。
「無事でよかった……心配したぞ」
「ごめん、父さん」
大人たちの心配と安堵が入り混じる中、三人は互いを見た。
叱られることは覚悟していた。しかし、後悔はなかった。あの光景を見た。あの冒険を経験した。そして、三人で困難を乗り越えた。
それは、三人の心に、消えない宝物として刻まれた。
ポケットの中で、虹色の結晶がかすかに温もりを放っていた。秘境から持ち帰った、小さな証。シオンはそれを握りしめながら、思った。
——いつか、また三人で冒険しよう。
——そして次は、もっと強くなって。
空には、夕焼けが広がり始めていた。オレンジと紫のグラデーションが、空を染めていく。
ミストリアを包む夕暮れの光の中で、三人の子供たちは、それぞれの未来を夢見ていた。
第三章 了
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