第二十二章 フリードリヒ王子
魔法訓練の授業が、始まった。
訓練場は、学院の中庭にあった。広大な芝生の広場に、複雑な魔法陣が描かれている。朝日が陣の線に反射し、幾何学的な模様が淡く輝いていた。
「今日は、攻撃魔法の基礎を学ぶ」
教官——白髪交じりの厳格な男——が言った。
「二人一組になって、模擬戦を行う。ただし、殺傷力のある魔法は禁止だ。防御魔法で相手の攻撃を防ぎ、カウンターで勝負を決める」
学生たちが、ざわめいた。期待と緊張が入り混じった空気が広場を満たしていく。
「では、ペアを発表する」
教官が名簿を見ながら、名前を読み上げていった。
シオンは、自分の名前が呼ばれるのを待った。隣でリアムが「誰と当たるかな」と小声で呟いている。
「……シオン・アーデン」
教官が言った。
「フリードリヒ殿下」
シオンは、目を見開いた。
——王子と……?
視線を感じて振り返ると、金髪の少年がシオンを見つめていた。青い瞳は冷たく、唇は薄く歪んでいる。
フリードリヒ王子。あの、留学生を虐げていた王子。食堂でリアムを侮辱した、あの人物。
その目には、明らかな敵意が宿っていた。
*
「さあ、始めようか」
フリードリヒが言った。声には、隠しきれない嘲りが滲んでいる。
二人は、魔法陣の中央で向かい合っていた。周囲には、他の学生たちが集まっている。模擬戦を見物しようと、輪を作っていた。
「アーデン家の末裔……賢者の血を引く者」
フリードリヒは、嘲るように言った。金髪が風に揺れ、高慢な顔つきがいっそう際立っている。
「父上は、お前のことを随分と気にかけているようだな」
「……」
「気に入らないんだよ」
フリードリヒの声が、低くなった。周囲に聞こえないように——しかし、シオンにははっきりと届くように。
「お前みたいな反逆者の子が、父上に重用されるのが」
「僕は反逆者じゃない」シオンは静かに言った。声を荒げない。感情を露わにしない。「あれは、でっち上げだ」
「黙れ」
フリードリヒの手が、光を帯びた。魔力が掌に集中していく。
「どっちにしろ、お前が目障りなことに変わりはない」
教官が、開始の合図を出した。
「始め!」
フリードリヒが、即座に攻撃を放った。
「炎よ!」
炎の球が、シオンに向かって飛んできた。オレンジ色の光が、空気を焦がしながら迫ってくる。
——速い!
シオンは、咄嗟に横に跳んだ。炎はシオンの髪を焦がしながら、地面に着弾した。焦げた土の匂いが鼻をつく。
「避けたか」
フリードリヒが笑った。獲物を追い詰める狩人のような笑み。
「だが、次はどうかな」
連続で炎の球が放たれた。一発、二発、三発——息つく間もなく、次々と。
シオンは、必死に避け続けた。転がり、跳び、身を捻る。
——これは、模擬戦なんかじゃない。本気で殺しに来てる!
「殿下!」教官が叫んだ。「威力を抑えてください!」
「何を言う」フリードリヒは笑った。「これくらい、賢者の血を引く者なら避けられるだろう?」
観客の学生たちが、ざわめいている。明らかに模擬戦の範囲を超えている——しかし、王子に逆らう者はいない。
フリードリヒは、さらに大きな魔法を詠唱し始めた。両手を掲げ、魔力が渦を巻く。
「炎の嵐よ、我が敵を焼き尽くせ——」
シオンは、決断した。
——反撃するしかない。
陽光の刻印に意識を集中させた。右手が熱くなる。体の奥底から、力が湧き上がってくる。
——時間よ、緩やかなれ——
世界がゆっくりになった。
フリードリヒの炎の嵐が、まるで水中を進むように遅く動いている。炎の粒子が、一つ一つ見えるほどに。
シオンは、その隙間を縫って、フリードリヒに接近した。一歩、二歩、三歩——通常なら避けられない攻撃の中を、まるで散歩するように。
そして、フリードリヒの腕を掴んだ。
「な——」
時の流れが戻った。
フリードリヒは、自分の腕が掴まれていることに驚愕した。目が見開かれ、口が開いたまま固まっている。
「いつの間に——」
「これで、僕の勝ちだ」
シオンは、冷静に言った。息は乱れているが、声は落ち着いている。
「この距離なら、攻撃魔法を詠唱する前に、僕の方が先に攻撃できる」
フリードリヒの顔が、怒りで歪んだ。屈辱と怒りが、青い瞳の中で渦巻いている。
「ふざけるな……!」
フリードリヒは、シオンの手を振り払った。
「こんなもの、勝ちとは認めない!」
「殿下」教官が割って入った。「模擬戦は終了です。勝者は、シオン・アーデン」
「何だと……!」
フリードリヒは、教官を睨みつけた。
「私が、こんな奴に負けた? 認めるものか!」
「殿下、落ち着いてください」
「うるさい!」
フリードリヒは、シオンを睨みつけた。その目には、消えない憎悪の炎が燃えていた。
「覚えておけ、アーデン。この借りは、必ず返す」
フリードリヒは、怒りを露わにしながら、訓練場を去っていった。その背中は震えていた——怒りで、あるいは、屈辱で。
*
「シオン、大丈夫か?」
リアムが駆け寄ってきた。顔には心配の色が浮かんでいる。
「ああ、なんとかな」
「あの王子、本気で殺す気だったぞ」
「わかってる」
シオンは、フリードリヒが去っていった方向を見つめた。
——なぜ、あそこまで僕を憎むんだ……?
「シオン」
エリカが近づいてきた。いつもの冷静な表情だが、どこか緊張した様子がある。
「フリードリヒ王子のことだけど……彼について、少し知っていることがあるの」
「何を?」
「王妃が亡くなってから、王は……狂気に囚われている。それは知っているわね」
「ああ」
「フリードリヒ王子は、その狂気の影響を最も近くで受けているの」
シオンは、眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「王は、王妃を亡くした悲しみから、息子であるフリードリヒにも冷たく当たるようになった。『お前がいても、エリザは帰ってこない』って」
シオンは、言葉を失った。そんな言葉を、父親から言われたら——
「それは……」
「フリードリヒ王子は、父親に愛されていないと感じている。そして、あなたが現れた」
エリカは、シオンを見つめた。銀縁の眼鏡の奥で、灰色の瞳が静かに光っている。
「時の秘術で、死者を蘇らせる力を持つ者。王が、誰よりも望んでいる存在」
「だから、僕を……」
「嫉妬しているのよ。自分よりも、あなたの方が父親に必要とされていると感じて」
シオンは、複雑な気持ちになった。
フリードリヒ王子は、確かに嫌な奴だ。留学生を虐げ、シオンを攻撃してきた。
しかし、彼もまた——被害者なのかもしれない。
*
その夜、シオンは一人で訓練場にいた。
月明かりの下、時の秘術の練習をしていた。昼間の模擬戦で使った力を、もっと自在に操れるように。
——もっと、上手く使えるようにならないと。
今日の模擬戦で、シオンは自分の力の限界を感じていた。
時を遅くすることはできる。しかし、その効果は数秒しか持たない。そして、使うたびに体力を消耗する。
——おじいさんみたいに、もっと長く、もっと自在に使えるようになりたい。
「……何をしている」
声が聞こえた。低い、疲れたような声。
振り返ると、フリードリヒが立っていた。月明かりの中で、金髪が銀色に輝いている。
「王子……」
「こんな夜中に、一人で訓練か」
フリードリヒの声には、昼間のような敵意がなかった。
どこか、疲れた響きがあった。肩の力が抜け、いつもの高慢さが影を潜めている。
「……殿下こそ、こんな時間に」
「眠れなかっただけだ」
フリードリヒは、シオンの隣を通り過ぎ、訓練場の端にある石のベンチに座った。月を見上げながら、深い溜息をつく。
「……なあ、アーデン」
「何だ?」
「お前は、本当に死者を蘇らせることができるのか?」
シオンは、しばらく黙っていた。風が吹き、草が揺れる音だけが響いている。
「……わからない。小鳥を蘇らせたことは、ある。でも、人間は……」
「そうか」
フリードリヒは、空を見上げた。月が、雲の間から顔を覗かせている。
「父上は、お前に期待している。母上を蘇らせてくれると」
「……」
「私は、母上が生きていた頃のことを、よく覚えている」
フリードリヒの声が、小さくなった。普段の威圧感が消え、そこにはただの少年がいた。
「優しい人だった。いつも、私を抱きしめてくれた。父上も、あの頃は……まともだった」
シオンは、黙って聞いていた。口を挟むべきではないと、本能的にわかっていた。
「母上が亡くなってから、すべてが変わった。父上は、私を見なくなった。私の存在など、どうでもいいかのように」
フリードリヒの目に、涙が滲んでいた。月明かりの中で、それが光っている。
「私は……母上を取り戻したい。父上に、また私を見てもらいたい」
シオンは、胸が痛くなった。
——この人も、苦しんでいるんだ。
「殿下」
「何だ」
「僕は、約束はできない。死者を蘇らせる力があるかどうか、自分でもわからないから」
シオンは、フリードリヒを真っ直ぐに見つめた。
「でも、一つだけ言えることがある」
「……何だ」
「王妃様を蘇らせるかどうかに関係なく、殿下の価値は変わらない。殿下は殿下だ。父親に愛されるために、何かを証明する必要なんてない」
フリードリヒは、目を見開いた。
「お前……」
「僕も、両親と離れている。会いたくても、会えない。だから、殿下の気持ちは……少しだけ、わかる気がする」
フリードリヒは、しばらくシオンを見つめていた。その目には、様々な感情が渦巻いていた——驚き、困惑、そして、わずかな温かさ。
そして、顔を背けた。
「……馬鹿なことを言うな」
フリードリヒは立ち上がり、歩き始めた。
「今日のことは、忘れろ。明日からは、また敵だ」
「殿下——」
「私は、お前を許したわけじゃない」
フリードリヒは、振り返らずに言った。その声は、どこか震えていた。
「でも……少しだけ、見直した」
そう言って、フリードリヒは闇の中へ消えていった。
シオンは、その背中を見送った。
——フリードリヒ王子……
彼は、単純な悪人ではなかった。
父親に愛されたいと願う、一人の少年だった。
シオンは、空を見上げた。
月が、静かに輝いていた。雲が流れ、光が揺れている。
この学院には、様々な闇がある。しかし、その闇の中にも——光を求める心がある。
シオンは、そう感じた。
第二十二章 了
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