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第二章 秘境への誘い


 あの丘の上での会話から、三日が経った。


 しかし、シオンの頭の中からは「秘境」という言葉が離れなかった。


 霧の向こうに霞む山々。その奥に広がるという、誰も足を踏み入れたことのない未知の領域。魔物が棲むと言われる危険な土地。そして、そこに眠っているかもしれない「お宝」。考えれば考えるほど、胸が高鳴った。夜、布団の中で目を閉じても、あの山の稜線が瞼の裏に浮かんでくる。


「また上の空?」


 ティアの声で、シオンは我に返った。二人は里の外れにある小川のほとりに座り、釣り糸を垂らしていた。水面がきらきらと光り、せせらぎの音が心地よく耳に響く。


「ごめん、ちょっと考え事してた」


「どうせ、あのことでしょ」ティアは溜息をついた。「秘境のこと、まだ気にしてるの?」


 シオンは黙って頷いた。隠しても仕方がない。ティアには、嘘が通じないのだ。


「あのね」ティアは真剣な顔でシオンを見た。いつもの勝気な表情とは違う、どこか切実な響きがあった。「本当に危ないんだから。里の大人たちが禁止してるのには、ちゃんと理由があるの」


「どんな理由?」


「……よく知らないけど。でも、昔そこに行った人が帰ってこなかったって話もあるし」


 ティアの言葉は、シオンの好奇心を抑えるどころか、むしろ煽る結果となった。帰ってこなかった人——それほどまでに危険な場所。一体、何があるというのだろう。心臓が、少しだけ速く鳴り始めた。


「シオン! ティア!」


 川の向こうから、リアムが手を振りながら走ってきた。彼の手には、何やら古ぼけた巻物のようなものが握られている。息を切らせた顔には、興奮の色が浮かんでいた。


「見て、これ!」


 リアムは二人の前に座り込み、巻物を広げた。それは色褪せた羊皮紙に描かれた、古い地図だった。端が擦り切れ、ところどころに染みがついている。だが、そこに描かれた線や文字は、まだはっきりと読み取ることができた。


「どこで見つけたの、これ」ティアが眉をひそめた。


「父さんの荷物の中にあったんだ」リアムは目を輝かせた。「昔、この辺りを旅した商人が描いた地図らしいぜ」


 地図には、ミストリアとその周辺の地形が描かれていた。里の北側には険しい山脈が連なり、その向こうには「未踏域」と記された広大な空白地帯があった。そして、その空白地帯の一部には、震える筆跡でこう記されていた。


「『光る森』……?」シオンが読み上げた。声が、わずかに震えていた。


「ね、見て。ここ」リアムが指差した。「『夜でも光を放つ植物あり。希少な鉱石多数。ただし、魔物の巣窟につき立ち入り厳禁』だって」


 三人は顔を見合わせた。沈黙が流れる。川のせせらぎだけが、静かに響いていた。


「光る植物……」シオンがつぶやいた。


「希少な鉱石……」リアムが続けた。


「ちょっと待ちなさいよ、二人とも」ティアが慌てて言った。「その顔、やめて。絶対ダメだからね」


「でもティア、光る植物だよ?」シオンが身を乗り出した。「見てみたくない?」


「希少な鉱石だよ?」リアムが続けた。「もしかしたら、すごい価値があるかもしれないぜ」


「だから、あんたは何でも商売に——」


「違うよ」


 リアムは珍しく真剣な顔で言った。いつもの軽い口調が消え、どこか大人びた表情になっていた。


「僕はただ……知りたいんだ。世界には、まだ僕の知らないものがたくさんあるって。それを自分の目で見てみたいんだ」


 その言葉に、ティアは口をつぐんだ。


 シオンも同じ気持ちだった。王都では、すべてが決まりきっていた。朝起きて、勉強して、稽古して、眠る。その繰り返し。窓の外には同じ景色が広がり、明日も明後日も、同じ日々が続くことがわかっていた。しかしここには、まだ見ぬ世界が広がっている。それを自分の目で確かめたい——その衝動は、抑えようとしても抑えられなかった。


「……私だって、気にならないわけじゃないわよ」


 ティアが小声でつぶやいた。


「え?」


「だから!」ティアは顔を赤くして叫んだ。「私だって、見てみたいって思ったことくらい、あるわよ!」


 その告白は、シオンにとって意外だった。いつも強がっているティアが、こんな風に本音を見せるとは。


「でも、危ないから……母さんに怒られるから……だから、我慢してたの」


 ティアは視線を落とした。その横顔に、シオンは初めて彼女の弱さを見た気がした。


 シオンとリアムは顔を見合わせた。そして、ゆっくりと笑みを浮かべた。


「じゃあ、三人で行こうよ」リアムが言った。


「三人なら、きっと大丈夫」シオンが続けた。


「……本当に、あんたたちは」ティアは呆れた声を出したが、その目には隠しきれない期待の光が宿っていた。口元が、わずかに緩んでいる。



              *



 計画は、翌日の早朝に決行されることになった。


 商隊は三日後に出発する予定だったので、リアムにはまだ時間があった。シオンは祖父に「ティアと遊んでくる」と告げ、ティアは母親に「シオンに里の外れを案内する」と言い残した。嘘ではない。ただ、「外れ」がどこまでを指すかは言わなかっただけだ。


 夜明け前、三人は里の北門で落ち合った。


 空はまだ薄暗く、東の空がようやく白み始めたところだった。吐く息が白く煙り、朝露が草を濡らしている。肌を刺すような冷気が、眠気を吹き飛ばしてくれた。


「寒いね」シオンが身震いした。


「当たり前でしょ。こんな時間に出てきたんだから」ティアが言った。彼女は腰に木刀を差し、背中には小さな袋を背負っていた。その姿は、まるで本物の冒険者のようだ。


「ティア、その袋は?」


「非常食と、傷薬。念のためよ」


 リアムが感心したように口笛を吹いた。「さすが、準備がいいな」


「あんたたちが頼りないからでしょ」


 そう言いながらも、ティアの表情には緊張と興奮が入り混じっていた。目が輝いている。彼女もまた、この冒険を心待ちにしていたのだ。


 三人は里を出て、北の山へと向かった。


 最初のうちは、よく整備された山道が続いていた。里の人々が薪を集めたり、山菜を採ったりするために使う道だ。木々の間から差し込む朝日が、道を金色に染めていく。鳥たちが目を覚まし、さえずりが森に響き始めた。


 しかし、一刻ほど歩くと、道は次第に細くなり、やがて消えてしまった。


「ここからは、誰も来ない場所ってことね」ティアが周囲を見回しながら言った。声が少しだけ緊張していた。


 森は深く、木々の枝が空を覆い隠していた。地面には苔が生え、湿った空気が肌にまとわりつく。どこからか、聞いたことのない鳥の声が響いてきた。それは美しいというよりも、どこか不気味な響きだった。


「なんだか、空気が違うね」シオンがつぶやいた。


 彼の言葉は正しかった。里の森とは、明らかに何かが違う。木々の幹は太く、苔むしており、その表面には奇妙な模様が浮かび上がっている。渦巻くような紋様——まるで、何かの呪文が刻まれているかのようだ。地面から生える草は、見たことのない形をしていた。葉が細長く、先端が青白く光っている。


「見て、あれ」リアムが立ち止まった。


 彼が指差す先には、一本の木が立っていた。しかし、それは普通の木ではなかった。幹全体が淡い青白い光を放っており、まるで内側から灯りがともっているようだった。光は柔らかく、温かみがある。闇の中の蛍火のようだ。


「光ってる……」シオンは息を呑んだ。


 地図に記されていた通りだ。夜でも光を放つ植物。しかし今は夜明け直後。それでもこれほど明るく光っているのだ。


「すごい……」ティアも目を見開いた。「本当にあったんだ」


 三人は光る木に近づいた。シオンが恐る恐る手を伸ばし、幹に触れてみた。表面は少しだけ温かかった。まるで、木自体が生きて呼吸しているかのようだ。脈打つような、かすかな振動が指先に伝わってくる。


「これ、何でできてるんだろう」リアムが木の幹を観察した。商人の目になっている。「もしかして、中に何か特殊な成分が……いくらで売れるかな」


「商人の目で見るのはやめなさいよ」ティアが呆れた。


「職業病だぜ」リアムは笑った。


 三人は光る木を後にして、さらに奥へと進んだ。


 森は次第に不思議な様相を呈していった。光る木は一本だけではなく、あちこちに点在していた。青、緑、白——様々な色の光が、森の中に散りばめられている。それだけではない。地面から生える草の中にも、淡い緑色の光を放つものがあった。岩の表面には、青や紫に輝く苔が生えていた。まるで、星空の中を歩いているような感覚だ。


 そして、小川のほとりに来たとき、三人は再び足を止めた。


「これ……」シオンが息を呑んだ。


 川底には、無数の小石が沈んでいた。しかし、それは普通の石ではなかった。透明な結晶のような石が、川の流れの中でキラキラと光を反射している。まるで、宝石を敷き詰めたような光景だった。水の音が、どこか神秘的に響いていた。


「希少な鉱石……これのことか」リアムが川に手を入れ、小石を一つ拾い上げた。


 それは親指の先ほどの大きさの結晶で、透明な中に虹色の光が閉じ込められているように見えた。光に透かすと、七色の輝きが踊る。


「綺麗……」ティアが感嘆の声を漏らした。いつもの強がりが消え、純粋な驚きが顔に浮かんでいた。


 シオンも一つ拾い上げてみた。手の中で、結晶は淡い温もりを放っていた。まるで、小さな命が宿っているかのように。心臓の鼓動に合わせて、微かに脈打っているようにも感じられた。


「お土産にしようよ」リアムが言った。「一人一個ずつ」


 三人は川底から結晶を一つずつ拾い、大切にポケットにしまった。これが、三人の絆の証になることを、この時の彼らはまだ知らなかった。



              *



 森の奥へ進むにつれて、景色はますます幻想的になっていった。


 巨大なキノコが木のように生え、その傘は鮮やかな紫色に輝いていた。触れると、ふわりと胞子が舞い上がる。蝶のような虫が飛び交い、その羽は透明な光を放っている。空気には甘い香りが漂い、どこか眠気を誘うような心地よさがあった。蜂蜜と、花と、何か知らない果実の匂いが混じり合っている。


「まるで、夢の中にいるみたい」シオンがつぶやいた。


「こんな場所が、本当にあったんだな」リアムも感慨深げに言った。いつもの軽口が消え、純粋な感動が声に滲んでいた。


 ティアは二人の後ろを歩きながら、周囲を警戒していた。彼女の手は、腰の木刀にかかっている。美しい景色に見とれながらも、里の戦士の娘としての本能が、危険を察知しようとしていた。


「ねえ、そろそろ戻らない?」ティアが言った。「十分見たでしょ」


「もう少しだけ」シオンが言った。「あの丘の上から、もっと先が見えるかもしれない」


 前方に小高い丘が見えた。三人はその丘を登り、頂上に立った。


 そこから見えた光景に、三人は言葉を失った。


 丘の向こうには、広大な谷が広がっていた。谷底には、光る植物が密集して生えており、まるで星空を地上に敷き詰めたような光景だった。青、緑、紫、金色——さまざまな色の光が、谷全体を幻想的に彩っている。光の海だ。夜空をそのまま大地に写し取ったかのような、圧倒的な美しさ。


「すごい……」三人が同時に声を漏らした。


 それは、言葉では表現しきれない美しさだった。王都のどんな宝石よりも、どんな芸術品よりも、この光景は美しかった。自然が作り出した、奇跡のような風景。人の手が加えられていない、原初の輝き。


「来てよかった」シオンが静かに言った。声が震えていた。


「うん」リアムも頷いた。


 ティアは何も言わなかったが、その目は光景に釘付けになっていた。そして、その頬を一筋の涙が伝った。


「ティア、泣いてるの?」シオンが驚いて聞いた。


「泣いてない!」ティアは慌てて目を拭った。「ただ……ただ、綺麗だなって思っただけよ。悪い?」


「悪くないよ」シオンは微笑んだ。「僕も、泣きそうだから」


 三人はしばらくの間、その光景を眺め続けた。時間が止まったかのような、永遠にも思える瞬間。この景色を、この感動を、三人は生涯忘れないだろう。


 風が吹くたびに、谷底の光る植物が揺れ、まるで光の波が押し寄せるように見えた。空は次第に明るくなり、朝日が山の端から顔を出し始めた。光の谷に、新たな光が差し込んでいく。


 その時だった。


 谷底の奥から、低い唸り声が聞こえてきた。


 三人は一瞬で緊張した。ティアは木刀を抜き、シオンとリアムの前に立った。体が勝手に動いていた。


「何の音?」リアムが小声で聞いた。声が震えている。


「わからない……でも、嫌な予感がする」ティアが答えた。


 唸り声は、次第に近づいてきた。地面が、かすかに振動している。何か大きなものが、こちらに向かって来ている。


 そして、谷底の光る植物の間から、巨大な影が姿を現した。


 それは、シオンたちがこれまで見たことのない生き物だった。


 体長は馬ほどもあり、全身が黒い鱗で覆われている。四本の足には鋭い爪が生え、口からは牙が覗いていた。そして、その目——血のように赤い二つの目が、丘の上に立つ三人を捉えた。知性を感じさせる、冷たい視線。獲物を品定めするような、残酷な輝き。


「魔物……」シオンがかすれた声で言った。


 地図に記されていた警告が、脳裏をよぎった。


 『魔物の巣窟につき立ち入り厳禁』


 その警告の意味を、三人は今、身をもって理解しようとしていた。


 魔物は低く唸り、ゆっくりと丘に向かって歩み始めた。急ぐ必要がないと言わんばかりに、悠然と。


 逃げ場はなかった。



                                   第二章 了


お読みいただきありがとうございます。

「クロノス・クロニクル」、いかがでしたでしょうか。


完結まで毎日18時に更新予定です!


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