第十八章 再会の約束
出発の朝は、静かに訪れた。
霧が里を包み、白い帳のように景色を覆っている。木々の輪郭はぼやけ、家々の屋根は幻のように浮かんでいた。空気は冷たく湿っており、肌に触れる霧の粒が小さな水滴となって髪に付着する。
シオンはその中を一人で歩いていた。足元の草が露に濡れ、歩くたびにかすかな音を立てる。
昨夜の出来事を、思い返していた。ティアはあれから一度も顔を見せなかった。フェリアに聞いても、「部屋にこもっている」としか答えてくれなかった。その声には、娘を心配する母の気持ちが滲んでいた。
——ティアに、謝らなければ。
そう思いながらも、何と言えばいいのか、わからなかった。自分の決断が正しいと信じている。しかし、それがティアを傷つけていることも、わかっている。
*
里の中央広場に、人々が集まっていた。霧の中に立つ彼らの姿は、まるで影絵のようだった。
トーマス長老、フェリア、そして里の戦士たち。その顔ぶれを見て、シオンは胸が熱くなった。
シオンの姿を見ると、トーマスが進み出た。老忍の足取りは重く、しかし揺るぎない。
「シオン殿。本当に、行かれるのですな」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑など」トーマスは首を横に振った。「我々は、お主に二度も救われた。一度目は幼き日に、そして二度目は先日の戦いで」
トーマスはシオンの手を取った。節くれだった老人の手は、剣だこで硬くなっていた。
「お主は、この里の英雄だ。何があっても、それは変わらぬ」
「ありがとうございます」
フェリアが前に出た。その目は赤く、泣いた跡があった。
「シオンくん」
「フェリアさん……」
「これを、持っていって」
フェリアが差し出したのは、小さな包みだった。古い布に丁寧に包まれ、かすかに香の匂いがする。
「これは?」
「里に伝わる護符よ。戦場で命を落とした者の魂を慰めるためのもの。でも、本当の意味は——」
フェリアは微笑んだ。その笑顔には、ティアと同じ面影があった。
「必ず、生きて帰ってくるという約束の証」
シオンは、その包みを受け取った。手の中で、かすかな温もりを感じる。
「ありがとうございます。必ず……」
「約束は、しなくていい」フェリアは首を横に振った。「ただ、生き延びなさい。それだけで十分よ」
シオンは頷いた。言葉よりも重い、母親としての願い。それを、しっかりと受け止めた。
*
ソロンが、シオンの前に立った。老賢者の顔には、別れの悲しみと、孫への誇りが同居していた。
「シオン。最後に、一つ渡しておくものがある」
ソロンは懐から、古びた懐中時計を取り出した。金属の表面は年月で黒ずみ、ところどころ傷がついている。
「これは……」
「私の師から受け継いだものだ。時の秘術を学ぶ者に代々伝えられてきた」
懐中時計は、複雑な文様で装飾されていた。三日月と太陽が絡み合うような模様。見つめていると、その模様が微かに光を放っているように見えた。
「この時計には、わずかながら時の力が宿っている。危機に陥った時、お前を守ってくれるだろう」
シオンは、その時計を受け取った。手のひらに載せると、かすかな振動を感じる。まるで、生きているかのように。
「おじいさん……」
「そして、もう一つ」
ソロンはシオンの額に手を当てた。骨ばった指が、冷たくも温かい。
「お前の額に、印を刻む。これは、私とお前を繋ぐ絆の証。どんなに遠く離れていても、私はお前の無事を感じ取ることができる」
光が閃き、シオンの額に温かい感覚が広がった。痛みはない。むしろ、心地よい温もりが全身に広がっていく。
「いずれ必ず、私は里の精鋭と共にお前を助けに行く」ソロンは真っ直ぐにシオンを見つめた。「それまで、どうか無事でいてくれ」
「うん。約束する」
祖父と孫は、固く抱擁を交わした。老賢者の身体は痩せて骨ばっていたが、その腕には確かな力があった。
*
別れの挨拶を終え、シオンが里の門へ向かおうとした時だった。
「待ちなさい!」
声が響いた。霧の中から、一つの影が飛び出してくる。
振り返ると、ティアが走ってきていた。髪は乱れ、目は腫れ、しかしその足取りには迷いがなかった。
「ティア……」
ティアはシオンの前で立ち止まり、荒い息をついた。白い息が霧に溶けていく。
「あんた……本当に行くの?」
「うん」
「……馬鹿」
ティアは俯いた。肩が小刻みに震えている。霧の水滴が、涙なのか露なのか、頬を伝っていた。
「昨日は、ごめん」シオンが言った。「ティアを傷つけるつもりは——」
「わかってる」ティアは顔を上げた。目は赤く腫れていたが、その奥には強い光があった。「あんたが、優しい馬鹿なのは、昔から知ってる」
「ティア……」
「だから、これを渡しに来たの」
ティアは何かをシオンに差し出した。小さな手のひらに載っているのは、虹色に輝く石。見覚えのある、あの水晶だった。
「これ……」
「覚えてる? 秘境で見つけた、虹色の水晶。私、まだ持ってたの」
シオンは、その石を見つめた。四年前、三人で冒険した時に見つけた水晶。シオンとリアムにも、それぞれ一つずつ渡した。あの日の記憶が、鮮やかに蘇る。
「私の分も、持っていって」
「ティア、これは君の——」
「いいの」ティアは首を横に振った。その目から、涙が一筋流れ落ちた。「一つじゃ足りない。二つあれば、もっと力になる」
シオンは、その言葉の意味を理解した。ティアは、自分の大切なものをシオンに託している。それは、シオンを守りたいという願い。そして、必ず戻ってきてほしいという祈り。
「ありがとう、ティア」
「約束して」ティアは真剣な目でシオンを見つめた。涙を流しながらも、その眼差しは真っ直ぐだった。「必ず、生きて帰ってくるって」
「約束する」
「嘘ついたら、許さないから」
「うん……絶対に、帰ってくる」
ティアは、微笑んだ。しかしその目には、涙が滲んでいた。笑顔と涙が同居する、不思議な表情。
「じゃあ……行って」
「ティア——」
「早く行きなさい! じゃないと、私、あんたを行かせたくなくなる!」
ティアは顔を背けた。その肩が、小刻みに震えている。
シオンは、しばらくティアを見つめていた。言いたいことは、たくさんあった。しかし、言葉にすれば、それは別れを長引かせるだけだ。
そして、踵を返した。
「行ってきます」
シオンは、里の門をくぐった。
*
霧の中を、シオンは一人で歩いていた。足音だけが、静寂の中に響く。
振り返ると、里の輪郭が霧に溶けていくのが見えた。家々の屋根、広場の木、そして門の前に立つ人影。全てが、白い帳の向こうに消えていく。
ティアの姿は、もう見えない。
——ティア、ごめん。そして、ありがとう。
シオンは懐から、二つの虹色の水晶を取り出した。自分のものと、ティアから受け取ったもの。手のひらに載せると、二つの水晶が触れ合い、澄んだ音を立てた。
光を受けて、水晶は虹色に輝いた。七色の光が、霧の中で揺れている。
シオンは、それを大切にしまった。
——リアムにも、きっと会える。
帝国の学院には、リアムがいるはずだ。幼い頃、一緒に冒険した友達。あの時交わした約束を、彼もきっと覚えている。
そして両親も、帝国のどこかにいる。
シオンは、前を向いた。霧が晴れ始め、道が見えてきた。朝日が雲の向こうから顔を出し、金色の光が道を照らし出す。
その道の先には、帝国がある。
——僕は、必ず帰ってくる。ティア、おじいさん、みんな。
シオンは歩き始めた。一歩、また一歩。帝国へと続く道を、しっかりと踏みしめながら。
*
里の門の前で、ティアは立ち尽くしていた。
霧の中へ消えていくシオンの背中を、じっと見つめていた。小さくなっていくその姿が、やがて白い帳に飲み込まれ、見えなくなった。
「ティア」
母のフェリアが、隣に立った。その手が、そっと娘の肩に触れる。
「……何」
「泣いてもいいのよ」
「泣いてない」
ティアは空を見上げた。霧の向こうに、朝日が透けて見える。その光が、涙で滲んでいた。
涙が、頬を伝って落ちた。
「泣いて、ないから……」
フェリアは、そっと娘の肩を抱いた。温かい腕が、震える身体を包み込む。
「シオンくんは、必ず帰ってくるわ」
「……わかってる」
「あの子は、約束を守る子だから」
ティアは頷いた。そして、声を押し殺して泣いた。母の胸に顔を埋め、四年間溜めていた涙を、全て流すように。
*
ソロンは、里の外れの丘から、シオンの姿を見守っていた。
霧の中を、小さな背中が遠ざかっていく。一歩一歩、確かな足取りで。その姿が、霧に溶けるまで、ソロンは目を離さなかった。
「シオンよ……」
老賢者は、その背中に向かって呟いた。
「お前は、私の誇りだ」
ソロンは懐から、古い巻物を取り出した。黄ばんだ紙に、古代の文字が記されている。
それは、時の秘術の奥義が記された書物。そして、クロノス・アビサルに関する古い記録。
「やがてお前は知ることになるだろう。この世界の真実を。そして、お前が背負う運命の重さを」
ソロンは、巻物を再びしまった。
「しかし、今はまだ……まだ、知らなくていい」
シオンの姿が、霧の向こうへ完全に消えた。ソロンは目を閉じ、深く息を吸った。冷たい霧の空気が、肺を満たす。
「行け、シオン。そして、生き延びろ。私が必ず、お前を迎えに行く」
老賢者の声は、風に乗って、霧の中へ消えていった。
第十八章 了
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