第十四章 秘境での特訓
翌朝、夜明けと共に、シオンとソロンは里を出発した。
空はまだ薄暗く、東の空がわずかに白み始めたところだった。吐く息が白く煙り、朝露が草を濡らしている。
「どこへ行くの?」
見送りに来たティアが尋ねた。寝起きなのか、目をこすりながら。
「秘境だ」ソロンが答えた。「四年前にお前たちが冒険した、あの場所」
「秘境……」ティアの顔が曇った。「危険よ。魔物もいるし——」
「だからこそ、訓練に最適なのだ」ソロンは言った。「実戦でなければ、身につかない技もある。温室で育った花は、嵐に耐えられない」
シオンはティアを見た。彼女の目には、心配の色が浮かんでいる。
「大丈夫。おじいさんがいるし、僕も四年前より強くなってる……はず」
「はず、って何よ」ティアは呆れた顔をしたが、すぐに真剣な表情になった。「……気をつけてね。無茶したら、承知しないから」
「ああ。行ってくる」
シオンとソロンは、霧の中へと消えていった。ティアの姿が、白い霧に溶けていく。
*
秘境への道は、四年前と変わっていなかった。
霧に包まれた森を抜け、険しい山道を登り、やがて不思議な光景が広がる場所に辿り着いた。空気が変わる。温度が変わる。光が変わる。まるで、別の世界に足を踏み入れたかのようだった。
光る植物。虹色に輝く結晶の川。巨大なキノコの群生。
シオンは、懐かしさと共に、あの日の記憶を思い出した。三人で走り回った丘。魔物と戦った谷。ティアが怪我をして、リアムが叫んで、自分の手が光った——あの瞬間。
「ここで、魔物と戦ったんだ」
「そうか」ソロンは周囲を見回した。老いた目が、鋭く光っている。「確かに、魔力が濃い。空気自体が、力を帯びている。修行には最適だな」
二人は秘境の奥へと進み、開けた場所に出た。
岩に囲まれた平地。周囲には光る植物が自生し、天然の照明のように空間を照らしている。青白い光が揺らめき、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「ここで訓練を行う」ソロンが言った。「まずは、基本から始めよう」
*
訓練は、想像以上に過酷だった。
「時の秘術は、集中力が全てだ」
ソロンはシオンの前に立ち、説明を始めた。声は穏やかだが、その目は厳しい。
「時間の流れを感じろ。この世界は、常に一定の速度で流れている。川のように、絶え間なく。その流れに意識を合わせ、干渉するのだ」
シオンは目を閉じ、集中した。
周囲の音が聞こえる。風が木の葉を揺らす音、遠くで水が流れる音、虫が鳴く声。そして、自分の心臓の音。ドクン、ドクンと、規則正しく打つ鼓動。
——時間の流れ。
シオンは、それを感じようとした。しかし、何も起こらなかった。音は音のまま、世界は世界のまま。
「焦るな」ソロンが言った。「最初からできる者はいない。何度も繰り返せ。水の滴が岩を穿つように」
シオンは何度も挑戦した。一時間、二時間、三時間。日が昇り、空が青くなり、また傾いていく。
やがて、微かに何かを感じ始めた。
世界が、ほんの少しだけ、ゆっくりになったような気がした。風の音が低くなり、心臓の鼓動が間延びして聞こえた。
「感じたか?」
「うん……でも、ほんの一瞬だけ」
「それでいい。その感覚を覚えろ。体に刻み込め。そして、繰り返し練習しろ」
*
翌日から、訓練は実戦形式になった。
「魔物を相手に戦う」ソロンが言った。「実際の戦闘で、力を使う練習だ」
「魔物……」シオンは唾を飲み込んだ。
「心配するな。私が見ている。危なくなったら助ける」
ソロンはシオンを連れて、秘境の奥深くへと進んだ。光る植物の間を縫い、巨大なキノコの森を抜け、岩場に出た。
やがて、一匹の魔物が現れた。
四年前に戦った魔物よりは小さいが、それでもシオンの背丈ほどはある。黒い毛に覆われた体、鋭い爪と牙。赤い目が、シオンを捉えている。
魔物はシオンを見つけると、低く唸り、襲いかかってきた。地面を蹴り、一気に距離を詰めてくる。
「来た——!」
シオンは本能的に横に飛んだ。魔物の爪が、シオンがいた場所を切り裂いた。空気が裂ける音がする。
「集中しろ、シオン!」ソロンが叫んだ。「時の流れを感じろ!」
シオンは歯を食いしばり、意識を集中させた。心臓がうるさい。恐怖が体を縛る。それでも、感じろ。感じるんだ。
魔物が再び襲いかかってくる。
——時間よ、緩やかなれ——
その瞬間、シオンの右手が光った。
陽光の刻印が浮かび上がり、世界が急にゆっくりになった。
魔物の動きが、まるで水中を進むかのように遅くなる。毛の一本一本が見え、爪の先端が空気を切り裂く軌跡が見える。
シオンは魔物の攻撃を避け、背後に回り込んだ。体が軽い。世界が止まったかのように、自分だけが自由に動ける。
「今だ!」
ソロンの声で、シオンは我に返った。術が解け、時間が元の速度に戻る。
魔物は振り返り、再びシオンに向かってきた。しかし、今度はソロンが介入した。
「時よ、凍れ——」
ソロンの月影の刻印が輝き、魔物の動きが完全に止まった。空中で静止している——まるで、時間の中に閉じ込められたかのように。
「今のうちに、離れろ」
シオンが距離を取ると、ソロンは術を解いた。魔物は混乱したように首を振り、やがて森の奥へと逃げていった。
「よくやった」ソロンが言った。「初めてにしては上出来だ」
「でも、まだ全然コントロールできない……」シオンは息を切らせながら言った。「すぐに解けちゃう」
「当たり前だ。この力を使いこなすには、何年もかかる。だが、お前には才能がある。必ずできるようになる」
*
訓練は、日を追うごとに激しさを増した。
朝から晩まで、魔物と戦い、力の制御を練習する。体中が傷だらけになり、筋肉が悲鳴を上げた。夜はソロンから時の秘術の理論を学ぶ。焚き火を囲みながら、古い知識が語り継がれていく。
「陽光の刻印と月影の刻印は、対になる力だ」ソロンが説明した。炎の光が、老人の顔を照らしている。「太陽は『進める』力——時を加速させ、物事を前に推し進める。三日月は『止める』力——時を遅らせ、あるいは静止させる。この二つが合わさった時、真の力が発揮される」
「合わさる?」
「いずれ教える。今は、まず自分の力を使いこなすことに集中しろ」
シオンは毎日、限界まで訓練した。
体は疲れ果て、何度も倒れそうになった。膝が笑い、腕が上がらなくなった。しかし、諦めなかった。
両親を救うために。友達を守るために。
その思いが、シオンを支えていた。
*
訓練を始めて、二週間が経った頃。
シオンは、明らかに成長していた。
時の流れを感じ取り、数秒間であれば自在に操れるようになった。魔物との戦いでも、冷静に対処できるようになっていた。動きを読み、隙を見つけ、的確に反撃する。二週間前の自分とは、別人のようだった。
「見事だ」ソロンが言った。「二週間でここまで成長するとは、思わなかった」
「まだまだだよ。おじいさんみたいには、全然使えない」
「当たり前だ。私は何十年も修行してきたのだぞ」
ソロンは笑った。皺の刻まれた顔に、温かな笑みが浮かぶ。しかし、その目には、孫への誇りが宿っていた。
「だが、このペースなら、お前はすぐに私を超えるかもしれない」
「本当?」
「お前の才能は、私が今まで見てきた中で、最も優れている。おそらく、先祖の中でも、最強の使い手になるだろう」
シオンは、複雑な気持ちになった。
最強の使い手。それは、誇らしいことのはずだ。しかし、同時に、責任の重さも感じた。この力を、どう使うべきなのか。
「おじいさん」
「何だ」
「僕は、この力を正しく使えるかな」
ソロンは、シオンの目を見つめた。長い沈黙が流れた。焚き火がパチパチと爆ぜる音だけが、夜の静けさを破っていた。
「それは、お前次第だ。力そのものに、善も悪もない。大切なのは、使う者の心だ」
「心……」
「お前は、両親を救いたいと思っている。友達を守りたいと思っている。その心がある限り、お前は力を正しく使えるはずだ」
シオンは頷いた。祖父の言葉が、胸に沁みていく。
その時、遠くから爆発音が聞こえた。
二人は顔を見合わせた。空の一角が、赤く染まっている。
「里の方角だ……!」シオンが叫んだ。
「帝国が来たか——」ソロンの顔が険しくなった。「戻るぞ、シオン!」
二人は、秘境を駆け抜け、里へと急いだ。
煙が、空に立ち上っていた。黒い煙が、夜空を覆い隠している。
戦いは、すでに始まっていた。
第十四章 了
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