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第十一章 賢者の脱出


 翌朝、シオンは鳥の声で目を覚ました。


 森の中で一夜を過ごした体は、あちこちが痛んだ。背中は湿った地面で冷え、肩は木の根に当たって痺れている。しかし、そんなことは言っていられなかった。


「起きたか」


 ソロンが、少し離れたところで火を焚いていた。小さな焚き火で、乾いたパンを炙っている。煙が立ち上らないよう、火は最小限に抑えられていた。


「おじいさん、火を焚いて大丈夫なの? 見つかるんじゃ——」


「もう消す。腹に何か入れておかないと、逃げる体力が持たない」


 ソロンは焚き火を消し、温まったパンをシオンに渡した。


 シオンは黙ってパンを食べた。昨夜から何も食べていなかったので、硬くなったパンでも美味しく感じた。噛むたびに唾液が出て、空っぽだった胃袋が少しだけ満たされていく。


「今日中に、できるだけ距離を稼ぐ」ソロンが言った。「追手は必ず来る。彼らより先に、ミストリアに着かなければならない」


 シオンは頷いた。口の中のパンを飲み込み、立ち上がる。


 二人は荷物をまとめ、再び歩き始めた。朝靄の立ち込める森の中を、足音を忍ばせて進んでいく。



              *



 森の中を進むこと数時間。


 太陽が高く昇った頃、ソロンが急に足を止めた。片手を上げ、シオンを制止する。


「どうしたの、おじいさん」


「静かに」


 ソロンは耳を澄ませていた。風が木の葉を揺らす音。鳥のさえずり。そして——


 シオンも、周囲の音に意識を集中させた。


 ——馬の蹄の音。


 遠くから、複数の馬が近づいてくる音が聞こえた。地面を踏み鳴らす重い響きと、金属が擦れ合う音。


「追手だ」ソロンの顔が険しくなった。「予想より早い」


「どうする?」


「走れ。街道を避けて、森の奥へ」


 二人は走り出した。


 木々の間を縫うように進む。枝が顔を打ち、根に足を取られそうになる。しかし、立ち止まるわけにはいかなかった。背後からの蹄の音が、じわじわと近づいてくる。


「こっちだ! 足跡がある!」


 追手の声が聞こえた。若い男の声——兵士だろう。


 シオンは心臓が早鐘を打つのを感じながら、必死に走った。肺が焼けるように熱い。足が重い。それでも、止まるわけにはいかない。



              *



 森の奥へ進むと、地形が険しくなってきた。


 急な斜面を下り、苔むした岩場を越え、やがて川のせせらぎが聞こえてきた。水の音が、希望のように響く。


「川だ」ソロンが言った。「これを渡れば、追手を撒けるかもしれない」


 二人は川岸に出た。


 川幅は十メートルほど。水は澄んでいたが、流れは速そうだった。白い泡が岩に当たって砕け、轟々と音を立てている。


「渡れる?」シオンが尋ねた。


「やるしかない。来い」


 ソロンはシオンの手を取り、川に足を踏み入れた。


 冷たい水が、足首から膝、腰へと上がってくる。骨まで凍るような冷たさ。流れは予想以上に強く、シオンは何度もバランスを崩しそうになった。


「しっかり掴まっていろ」


 ソロンの手が、シオンをしっかりと支えている。老いた手とは思えない、強い握力。


 川の中ほどまで来た時、背後から声が聞こえた。


「いたぞ! 川を渡ろうとしている!」


 振り返ると、川岸に追手の兵士たちが現れていた。黒い鎧に身を包んだ男たち。弓を構えている者もいる。矢がつがえられ、こちらを狙っている。


「走れ、シオン!」


 ソロンが叫んだ。


 二人は水を掻き分け、対岸を目指した。


 背後で弓弦が鳴る音がした。矢が水面を切り裂き、シオンのすぐ横に突き刺さった。水飛沫が顔にかかる。


「くそっ——」


 ソロンが片手を上げた。


 その掌に、三日月の形をした紋章が浮かび上がった。淡い青白い光が、水面を照らす。


「時よ、緩やかなれ——」


 ソロンが呪文を唱えると、追手の動きが急に遅くなった。放たれた矢も、まるで水中を進むかのように、ゆっくりと飛んでくる。兵士たちの叫び声さえも、引き伸ばされたように聞こえた。


「今だ、シオン!」


 二人は残りの距離を一気に駆け抜け、対岸に辿り着いた。濡れた岸辺を這い上がり、森の中へ飛び込む。


 ソロンが術を解くと、時の流れが元に戻った。追手たちは、獲物が突然消えたかのように困惑していた。


「逃げられた! 川を渡れ!」


 追手たちが川に入ってくる。しかし、二人はすでに森の奥へと姿を消していた。



              *



 しばらく走り続けると、追手の声は聞こえなくなった。


 しかし、安心はできなかった。シオンは膝に手をつき、荒い息を整えながら祖父を見た。


「おじいさん、さっきの……」


 シオンは、祖父の手に浮かんでいた紋章のことを尋ねようとした。


「月影の刻印ルナ・シギルだ」ソロンが答えた。息を切らせながらも、声は落ち着いていた。「お前の陽光の刻印ソール・シギルと対になる、時の秘術の証。私も、この力を持っている」


「おじいさんも、時間を操れるの?」


「お前ほどの力はない。私にできるのは、時の流れを少し緩やかにする程度だ。しかし、今のような場面では役に立つ」


 シオンは頷いた。


 祖父も、自分と同じ力を持っていた。それが、少しだけ心強かった。孤独ではないのだと。


「だが、あまり使いすぎると体に負担がかかる」ソロンは息を切らしながら言った。「若い頃ならともかく、今の私には限界がある」


「大丈夫?」


「心配するな。まだ動ける」


 ソロンは微笑んだ。しかし、その顔には疲労の色が濃かった。頬がこけ、目の下に影ができている。



              *



 日が傾き始めた頃、異変が起きた。


 風向きが変わり、焦げ臭い匂いが漂ってきた。木が燃える匂い。乾いた草が焼ける匂い。


「この匂いは……」シオンが顔をしかめた。


 ソロンの顔が、険しくなった。


「火だ。森が燃えている」


 振り返ると、森の向こうに黒い煙が立ち上っていた。空を覆うほどの、巨大な煙。


「追手が火を放ったのか……!」


「我々を炙り出すつもりだ。このままでは——」


 火の手は、恐ろしい速さで広がっていた。乾燥した下草が燃え、炎が木々に燃え移る。パチパチと爆ぜる音、轟々と燃え上がる音。動物たちが、悲鳴を上げながら逃げていく。


「逃げるぞ、シオン!」


 二人は、火の手を避けながら走った。


 しかし、炎は四方から迫ってきた。ヴィクターの命令で、森を囲むように火を放ったのだろう。逃げ道を塞ぎ、獲物を追い詰める——狩りの手口だ。


「このままじゃ、囲まれる……!」


 シオンの声が、煙に掻き消されそうになった。


 熱風が顔を打つ。煙が目に染み、呼吸が苦しくなる。咳き込みながら、それでも足を動かし続ける。


「こっちだ!」


 ソロンが、ある方向を指差した。


 そこには、崖があった。断崖絶壁——そして、崖の下には、激しい流れの川があった。高さは十メートル以上。落ちれば、無事では済まないかもしれない。


「まさか……」


「飛び込むしかない。ここで焼け死ぬよりはましだ」


 ソロンはシオンの手を握った。その手は熱を帯びていたが、しっかりと力強かった。


「いいか、シオン。水に入ったら、できるだけ体を丸めろ。岩にぶつからないように」


「でも……」


「信じろ。私がお前を守る」


 炎が、すぐそこまで迫っていた。熱気が肌を焼き、髪の先が焦げる匂いがする。


 選択の余地はなかった。


「——行くぞ!」


 二人は、崖から飛び降りた。



              *



 落下の瞬間、シオンは目を閉じた。


 風が体を切り裂き、次の瞬間、冷たい水が全身を包んだ。


 激流がシオンを飲み込み、上下左右の感覚が失われた。水が鼻と口に入り、息ができなくなった。どこが上で、どこが下かもわからない。


 ——溺れる——


 パニックに陥りかけた時、誰かの手がシオンの腕を掴んだ。


 ソロンだった。


 祖父は、激流の中でもシオンを離さなかった。水面に向かって、必死に泳いでいる。白い髪が水中で揺れている。


 やがて、二人の顔が水面に出た。


「——はっ……!」


 シオンは大きく息を吸った。肺に空気が入り、生き返った気がした。冷たい空気が、これほど美味しいと思ったことはなかった。


「シオン、岩だ! 掴まれ!」


 ソロンが叫んだ。


 前方に、大きな岩があった。シオンは必死に手を伸ばし、岩の表面を掴んだ。指が岩肌に食い込む。


 ソロンも岩に掴まり、二人は激流の中でしばらく息を整えた。


「おじいさん……大丈夫……?」


「ああ……何とか、な……」


 ソロンの顔は蒼白だった。体力を消耗し、限界に近いことは明らかだった。唇が紫色に変わっている。


 しかし、まだ生きている。二人とも、生きている。


 川の上流を見ると、森が燃えているのが見えた。オレンジ色の炎が、夜空を焦がしている。しかし、炎はここまでは追ってこなかった。


 川が、二人を救ったのだ。


「……行くぞ」ソロンが言った。声が震えている。「下流に、浅瀬があるはずだ。そこから岸に上がろう」


 二人は岩から離れ、川の流れに身を任せた。


 流れは次第に緩やかになり、やがて浅瀬に辿り着いた。


 岸に這い上がった二人は、そのまま草の上に倒れ込んだ。


 体中が痛い。冷たい。疲れた。骨の芯まで冷え切り、指一本動かすのも億劫だった。


 しかし、生きている。


 シオンは空を見上げた。夕焼けが、空を赤く染めていた。上流の方では、まだ森が燃えている。しかし、その炎も、ここからは遠い。


「おじいさん……」


「何だ」


「……ありがとう」


 ソロンは微笑んだ。疲れ切った顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。


「礼を言うのは、まだ早い。ミストリアに着くまでは、油断できない」


「うん……」


 シオンは目を閉じた。


 体は疲れ切っていたが、心は折れていなかった。


 まだ、終わりじゃない。両親を救うまで、絶対に諦めない。


 そう思いながら、シオンは意識を手放した。



                                   第十一章 了


お読みいただきありがとうございます。

「クロノス・クロニクル」、いかがでしたでしょうか。


完結まで毎日18時に更新予定です!


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