第一章 運命の合流
朝霧が山々を包み込む、静かな夜明けだった。
辺境の地「ミストリア」——その名の通り、この集落は一年の大半を白い靄に覆われている。険しい山脈と深い森に囲まれたこの土地は、王国の地図にはほとんど記されることのない、忘れられた楽園だった。空気は冷たく澄んでいて、深く吸い込むと胸の奥まで洗われるような清々しさがある。
七歳の少年、アーデン・ヴァレンタイン・シオンは、馬車の窓から身を乗り出して、その幻想的な風景に目を奪われていた。
「シオン、危ないぞ」
隣に座る祖父——アーデン・グレゴリー・ソロンが、穏やかながらも諭すような声で言った。白髪交じりの長い髪を後ろで束ね、深い皺の刻まれた顔には、どこか悪戯っぽい微笑みが浮かんでいる。
「でも、おじいさん、見て! あの木、光ってるよ!」
シオンが指差す先には、朝露を纏った巨木が、差し込む朝日を受けて金色に輝いていた。無数の水滴が光を反射し、まるで木全体が宝石で飾られているかのようだ。王都では決して見ることのできない光景である。
「ここは特別な場所なのだ」ソロンは孫の頭を優しく撫でた。皺だらけの手のひらは、しかし不思議と温かい。「我々の祖先が生まれた土地。お前のルーツでもある」
シオンは首を傾げた。王都で生まれ育った彼にとって、「ルーツ」という言葉はまだ実感の湧かないものだった。しかし、この霧に包まれた神秘的な土地が、自分と何か深い繋がりを持っているのだと思うと、胸の奥がほんの少しだけ温かくなるのを感じた。
馬車が里の入り口に差し掛かると、数人の里人が出迎えに現れた。彼らは質素ながらも清潔な衣服を身にまとい、腰には刀を差している者もいる。その立ち居振る舞いには、王都の貴族とは異なる、野性的な気品が漂っていた。
「ようこそお越しくださいました、ソロン様」
先頭に立つ女性が、深々と頭を下げた。彼女の名はフェリア——ミストリアの長である。凛とした佇まいの中に、どこか母性的な温かさを秘めた女性だった。黒髪は艶やかに光り、切れ長の目は優しげでありながら、どこか厳しさも感じさせる。
「久しぶりだな、フェリア」ソロンは馬車を降り、旧友に微笑みかけた。「こちらが孫のシオンだ。しばらくの間、世話になる」
シオンは緊張した面持ちで馬車から降り、ぎこちなく頭を下げた。背筋を伸ばし、視線を落とし、決められた角度で礼をする——王都での堅苦しい礼儀作法が、体に染みついていた。
フェリアは優しく微笑んだ。その笑顔には、シオンの緊張を見透かすような温かさがあった。「堅くならなくていいのよ。ここでは自由に過ごしなさい」
シオンの肩から、少しだけ力が抜けた。
「ティア!」
フェリアが振り返って呼ぶと、木陰からひとりの少女が姿を現した。シオンと同じくらいの年頃だろうか。黒髪を短く切り揃え、大きな瞳には好奇心と警戒心が入り混じっている。里の子供らしく、動きやすそうな袴姿で、腰には小さな木刀を差していた。その足取りは軽やかで、まるで野生の獣のような敏捷さを感じさせる。
「この子がティア。私の娘よ」フェリアが紹介した。「シオンくんの案内をしてあげなさい」
ティアはシオンを値踏みするような目で見つめた。上から下まで、遠慮のない視線が這い回る。
「……ふうん。王都の子って、みんなそんなにひょろひょろしてるの?」
「ティア!」フェリアが窘めるが、ティアは悪びれる様子もない。むしろ、「本当のことでしょ」と言わんばかりに肩をすくめている。
シオンは一瞬、言葉に詰まった。王都では誰もが彼に敬意を払い、からかわれることなど一度もなかったのだ。「アーデン家の御子息」として、常に丁重に扱われてきた。しかし、不思議と嫌な気持ちはしなかった。むしろ、この勝気な少女の率直さが、どこか新鮮に感じられた。王都の子供たちの、取り繕った笑顔とは違う。
「ひょろひょろじゃないよ」シオンは少しむきになって答えた。声が思ったより強くなってしまい、自分でも驚く。「僕だって、剣の稽古くらいしてるんだから」
「へえ?」ティアの目が、ほんの一瞬だけ輝いた。口元に、挑発的な笑みが浮かぶ。「じゃあ、あとで手合わせしようよ。どれくらい強いか見てあげる」
それが、シオンとティアの出会いだった。
*
里に到着してから三日が過ぎた頃、シオンは少しずつこの土地での生活に馴染み始めていた。
ティアは相変わらず口が悪い。「なんでそんなこともできないのよ」「王都の子は本当に使えないわね」——そんな言葉を、一日に何度も浴びせられる。しかし、シオンが道に迷えば文句を言いながらも探しに来てくれたし、里の美味しい木の実の場所も教えてくれた。その木の実は、王都で食べるどんな菓子よりも甘く、口いっぱいに自然の恵みが広がった。
二人は毎日のように里の中を駆け回った。時には木刀で打ち合い——シオンはいつも負けた。ティアの動きは素早く、まるで風のようだ。どれだけ頑張っても、彼女の木刀をかわすことさえできない。時には川で魚を追いかけた。冷たい水が足首を包み、滑る石に何度も転びそうになりながら、それでも笑い声が止まらなかった。
王都での生活は、朝から晩まで勉強と礼儀作法の稽古の連続だった。「賢者の血筋として恥じない振る舞いを」と、両親からも教師からも厳しく言われ続けてきた。しかしここでは、誰もシオンを「アーデン家の跡取り」として扱わない。ただの「シオン」として、自由に走り回ることができた。
それは、七年の人生で初めて味わう解放感だった。
その日の午後、シオンとティアは里の広場で遊んでいた。空は抜けるように青く、白い雲がゆっくりと流れている。広場の隅では、老人たちが日向ぼっこをしながら談笑し、子供たちの声が風に乗って響いていた。
「ねえ、あれ何?」
シオンが指差した先には、里の入り口から続々と入ってくる荷馬車の列があった。馬車には色とりどりの布や、見たこともない形の壺、奇妙な香りを放つ香辛料の袋が積まれている。風が運んでくる異国の香り——胡椒と、甘い果実と、何か知らない花のような匂いが混じり合っている。
「ああ、商隊だよ」ティアは興味なさそうに答えた。「時々、遠くの国から来るの。珍しいものを売りに来るんだって」
「遠くの国?」
「メルカリアとかいう、お金持ちの国らしいよ。母さんが言ってた」
シオンは目を輝かせた。王都でも商人を見かけることはあったが、こんなに異国情緒あふれる商隊は初めてだった。荷馬車の幌には、見たこともない紋章が刺繍されている。金の糸で縫い取られた、天秤と船の図柄——それが、メルカリアの象徴なのだろう。
商隊の先頭を歩く恰幅の良い男性が、里人たちと挨拶を交わしている。日に焼けた顔に、人懐っこい笑顔。商人らしい、人の心を掴む魅力があった。その隣には、シオンたちより少しだけ年上に見える少年が立っていた。
少年は黒い髪を短く刈り込み、利発そうな目をしていた。商人の子供らしく、身なりは清潔で、どこか大人びた雰囲気を漂わせている。しかし、その目は好奇心に満ちており、物珍しそうに里の風景を眺めていた。霧に包まれた家々、質素だが趣のある建物、そして里人たちの独特の服装——すべてが、彼にとっては新鮮なのだろう。
ふと、少年の視線がシオンたちを捉えた。一瞬、驚いたような顔をして——そして、パッと表情が明るくなった。
「やあ」
少年は人懐っこい笑顔を浮かべて近づいてきた。その足取りには、初対面の相手に対する遠慮がまったくない。
「君たち、この里の子? 僕はリアム。メルカリアから来たんだ。父さんの仕事について来たんだけど、こんな山奥の里は初めてでさ。案内してくれない?」
その気さくな態度に、シオンは少し面食らった。王都の子供たちは、初対面でこんなに馴れ馴れしく話しかけてくることはない。まず家柄を確認し、上下関係を見極め、それから慎重に言葉を選ぶ——そういう世界でシオンは育ってきた。
「私たちだって暇じゃないんだけど」ティアが腕を組んで言った。声には棘があるが、その目はどこか面白がっているようにも見える。
「そうだ、お礼にこれあげるよ」
リアムは懐から小さな袋を取り出した。中には、透明な飴玉が入っている。光に透かすと、虹色に輝いて見えた。まるで、小さな宝石のようだ。
「南の島でしか取れない果物の飴。すっごく甘くて美味しいんだ」
ティアの目が、ほんの一瞬だけ飴玉に吸い寄せられた。喉がごくりと動くのが見えた。
「……別に、飴なんかで釣られないから」
「じゃあ、僕がもらっていい?」シオンが手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」ティアが慌てて割り込む。「……まあ、案内くらいならしてあげてもいいけど」
リアムはにっこりと笑った。商人の息子らしく、相手の心を読むのが上手いようだ。「やった。ありがとう、えーと……」
「シオンだよ。アーデン・ヴァレンタイン・シオン」
「私はティア。覚えときなさいよ」
「シオンとティアね。よろしく!」
リアムは二人の名前を、まるで宝物でも見つけたかのように嬉しそうに繰り返した。その声には、純粋な喜びが込められていた。
*
三人は里の中を歩き始めた。
ティアが先頭に立ち、時折振り返っては「ほら、早く来なさいよ」と急かす。シオンはその後を追い、リアムは興味深そうに周囲を見回しながらついてくる。足元の土は柔らかく、草の匂いが風に乗って漂ってきた。
「へえ、この里って本当に霧が多いんだね」リアムが感心したように言った。白い靄が、まるで生き物のように三人の足元を這っている。「商売的には大変そうだけど、なんだか幻想的で素敵だ」
「商売的って……あんた、本当に商人の子ね」ティアが呆れた声を出した。
「そりゃそうだよ。メルカリアは商業国家だからね」リアムは胸を張った。「僕も将来は父さんみたいな大商人になるんだ。世界中を旅して、色んな国の珍しいものを取引するんだ」
リアムの言葉には、子供らしい夢と、どこか現実的な計算高さが同居していた。目を輝かせながらも、「いくらで売れるか」を考えているような——不思議なバランスだ。
「シオンは? 将来何になるの?」
突然話を振られて、シオンは首を傾げた。賢者の家系に生まれ、その道を歩むことは当然のように思っていた。しかし「将来」を問われると、途端に言葉が霞んでしまう。自分で選んだわけではない。ただ、そう決められているだけだ。
「……たぶん、賢者に」
「賢者! 魔法使えるの?」リアムの目が、秘境で見つけた宝石のように輝いた。
「まだ使えないよ。でも、おじいさんは凄いんだ。水を操ったり、火を出したり……」
「いいなあ。僕も魔法使えたら、もっと商売がうまくいくのに」
「あんたは何でも商売に結びつけるのね」ティアが溜息をついた。
三人は川沿いの道を歩き、古い神社の前を通り過ぎ、やがて里の外れにある小高い丘の上に辿り着いた。草原には名も知らぬ花が揺れ、虫の声が穏やかに響いている。
そこからは、里全体が一望できた。白い霧に包まれた家々、その向こうに連なる深い緑の森、さらにその奥には、霞んで見える山脈の影。夕日が山の端にかかり始め、空はオレンジと紫のグラデーションに染まっていた。
「うわあ……」リアムが思わず声を漏らした。「すごい景色だね」
シオンも頷いた。王都の高い塔から見下ろす景色とは、まるで違う。あちらは人の手が加えられた、整然とした美しさ。しかしここには、人の手が加えられていない、原初の美しさがあった。山々のうねり、森の深さ、霧の流れ——すべてが、自然のままだ。
「でしょ?」ティアが少しだけ誇らしげに胸を張った。「これが私の里。世界で一番いい場所なんだから」
「一番かどうかはわからないけど」リアムが笑った。「でも、確かにいい場所だね。僕の住んでる王都の下町とは全然違う」
「王都? あんたも王都に住んでるの?」ティアがシオンを見た。
「うん、僕は王都で生まれたんだ」シオンが答えた。「でも、リアムとは会ったことないよ」
「そりゃそうだよ。僕は下町の商人街、シオンは多分……貴族街でしょ? 全然違う世界だもん」
リアムの言葉には、皮肉や僻みは含まれていなかった。ただ、事実を述べているだけだ。しかしシオンは、その言葉に少しだけ胸が痛んだ。同じ王都に住んでいながら、出会うことさえなかった。壁に囲まれた貴族街と、活気に満ちた商人街。すぐ近くにいながら、まるで別の世界。
「でも、今は同じ場所にいるじゃない」
ティアがふいに言った。その声には、いつもの棘がなかった。
「ここでは、貴族も商人も関係ないでしょ。みんなただの子供よ」
リアムは目を丸くした。そして、ゆっくりと笑顔になった。その笑顔には、さっきまでの商人らしい計算高さがなく、純粋な喜びだけがあった。
「……そうだね。君、いいこと言うね」
「当たり前のことを言っただけよ」ティアはそっぽを向いたが、その耳は少しだけ赤くなっていた。
シオンも微笑んだ。ティアの言う通りだ。ここでは、自分は「アーデン家の跡取り」ではない。リアムも「商人の息子」ではない。三人とも、ただの子供なのだ。同じ空の下、同じ景色を見つめる、ただの子供。
それがどれほど貴重なことか、七歳のシオンにはまだわからなかった。しかし、この瞬間が特別なものであることだけは、胸の奥で確かに感じ取っていた。
「ねえ」リアムが突然、声を潜めた。「あの山の向こうに何があるか、知ってる?」
彼が指差したのは、里の裏手にそびえる、一際高い山だった。その頂上は霧に隠れて見えない。夕暮れの光を受けて、山肌が不思議な色に染まっている。
「知らない」シオンが首を振った。
「秘境よ」ティアが答えた。声が少しだけ緊張している。「大人たちは『禁域』って呼んでる。危険だから、絶対に近づいちゃダメって言われてるの」
「秘境?」リアムの目が怪しく輝いた。商人の目だ。「危険ってことは、何か凄いものがあるってこと?」
「知らないわよ。だから禁止されてるんでしょ」
「でも、気にならない? 僕、商人の勘で分かるんだ」リアムは声を低くした。まるで秘密を打ち明けるように。「あの山には、きっと凄いお宝が眠ってる」
「お宝……」シオンの目も、少しだけ輝いた。心臓が、わずかに早く鳴り始める。
「ちょっと、二人とも!」ティアが慌てた声を出した。「本当に危ないんだからね! 魔物も出るって言われてるし……」
「魔物!?」
シオンとリアムが同時に声を上げた。しかしその声色は、恐怖よりも興奮に近かった。魔物。秘境。お宝。王都の堅苦しい生活では決して味わえない、本物の冒険の匂いがした。
「やめなさいよ、その顔……」ティアが頭を抱えた。「絶対、ろくなこと考えてないでしょ」
「僕は何も言ってないよ」リアムが白々しく言った。
「僕も」シオンが続いた。
ティアは二人を交互に見つめ、大きな溜息をついた。
「……あんたたち、本当に気が合うのね。嫌になるわ」
しかし、その言葉とは裏腹に、ティアの口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。彼女もまた、心のどこかで、この新しい友人たちとの出会いを喜んでいるのだろう。
夕暮れの光が、三人の影を長く伸ばしていた。オレンジ色の光が顔を照らし、風が髪を揺らす。ミストリアに吹く風は、どこか甘い香りを運んでいる。それは、この土地に咲く名もなき花の香りだった。
この日、三人の子供たちは出会った。
賢者の血を引く少年、シオン。
里の長の娘、ティア。
商人の息子、リアム。
境遇も、育った場所も、将来の夢も、すべてが異なる三人。しかし、この瞬間だけは、三人は同じ場所に立っていた。同じ風を感じ、同じ景色を見つめ、同じ好奇心に胸を躍らせていた。
それが、運命の始まりだった。やがて世界を揺るがす大きな歯車の、最初の一回転。
しかし今はまだ、三人はそれを知らない。ただ、明日への期待に胸を膨らませながら、夕暮れの丘を駆け下りていくだけだった。草を踏みしめ、笑い声を上げながら。三人の足音が、霧の中に溶けていった。
第一章 了
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