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やっと家に帰れた。 ミツルさんは、本当に美しかった。心臓を鷲掴みにされてしまったみたいだ。僕は案外、人を好きになれるのかもしれない。そんな気がした。
夜風がビュウビュウと嫌な音を立てて、窓枠を殴りつける。今窓を開けたら、きっと机の上の原稿用紙がばぁっと飛んでしまう。けれど、夜風を浴びたい。海の匂いを嗅ぎたかった。それなのに、両腕両脚がクタクタに疲れて、まるで鉛になってしまったようだ。床の上に紙くずのように転がっては、乾いた口で懐かしい小唄をくちずさんだ。
窓から星が見える。兄さんも母さんも、死んだ今は、星となって僕を見守っているのだろうか。あんまり星を見ていると気が狂ってしまうと言われても、僕はそれでいいと思った。 別に、星臆病がなんだ。僕だって、はやく死んでしまいたいのさ。別に生きていたって、仕方がない。ただ年老いて醜くなるだけだ。僕みたいな情けない男が生きていたってきっと何の役にも立ちやしない。
部屋の隅にある姿見が視界に飛び込んでくる。 僕は男らしくない。でも、男らしくないからこそ、自分の見た目は美しいと思った。凛人。 りと。リト。伊太利亜語で海。母さんが考えてくれた名前にふさわしい、僕の海の色の瞳だって、きっと歳を取ればどろりと濁った色になるのだろう。雪のような肌もくすんでシワシワになって、蜜色の柔らかい、肩まで届く長い髪も。歳を取れば澱んだ色になって、長くしておくのも億劫になるだろう。細い手足もきっと太くなって、髭だって生えてくる筈だ。 あゝ、厭だ。厭だ。死んでしまいたい。若くて綺麗なうちに。僕は兄さんの次に美しい死体になれる。
母さん、僕をそっちへ連れて行ってはくれませんか。
煙草の匂いがする。父さんが吸っているんだ。毎日毎日、父さんは煙草ばかり吸って、飽きないのだろうか。歯も黄色くなってしまう。きっとあんなものを吸っていれば、醜くなるに違いない。だってあの、父さんの目は酷く濁っている。あんな目になりたくない。目は多分、口よりお喋りだ。僕も、美しい目のひとに成りたい。兄さんや母さんみたいな、芯のある暖かい海の色の目。あれになりたい。僕ではダメだ。こんないけない人間、澱んだ目になってしまうに違いない。いい人になりたい。きっと僕も、こんな思いしなければ。たくさんの人を愛して、愛されて、幸せに暮らせていたんだ。そうに違いない。嗚呼、僕が、可哀想。可哀想。




