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夏の暮れ。
僕は鍵盤の上で指を躍らせながら窓の向こうを眺める。
涼しい夜風が肩に着くほど伸びてしまった蜜色の僕の髪を、ほぐして通り過ぎて行く。
星臆病という妙な流行病のせいで、数日前に星めぐりの歌なんかを歌いながら夜空を眺めていたら、
「魂を落ち着かせるため」と 村外れの修道院に併設された病院に1ヶ月ほど押し込まれることになってしまった。
最も、僕は兄さんが裏山で首を吊って死んでからというものうちに帰りたいと思ったことは一瞬たりとも無かったけれど。
父さんは強く、暖かい心の持ち主だった。 けれど、母さんが病で死に、兄さんも亡くしてからは、うちに残るのは僕と父さんだけになってしまった。父さんは昔は立派な人だったけれど、母さんが死んでからというもの、心を無くしたような、虚無ばかりの 悲しい人に成り果ててしまった。
僕だって前のような暮らしができているとは思わない。 どこへ行っても喪失感が着いてくるのだ。
特に 兄さんは僕を守って死んだことが、何より苦しかった。
兄さんは春風のような人だった。
僕達一家が伊太利亜から父さんの生まれ故郷の日本に移り住んだ時、 ただでさえ閉鎖的な村に越して来た余所者だというのに、異国人との混血の僕達が受け入れられる訳がないのだ。
学校へ通い始めてすぐの時、鉛筆で首にひっかき傷をつけられてからというもの、僕は髪を伸ばして、傷をかくそうと必死になったものだ。 今だってこんな傷、情けなくって誰にも見せられやしないけれど。
そんな僕が虐められている所を見た兄さんは、最後まで僕のことを守ってくれた。 なぜ兄さんが死を選んだかと言うと、全く逃げた訳ではなく、他でもない僕を引き合いに脅しにあったらしく、後に耳にしたその内容は「明日までにお前が自尽しなければお前の弟を殺してやる」というものだった。
それを聞いて僕はやるせなくてたまらなかった。
もう僕の方が死んでしまいたいと思った。情けなくって、それでもぐらぐら煮えたぎるような怒りもあった。あいつら、自分の手を汚さずに人を殺したんだ。狡くて、潔いという言葉を知らないんだ。
でも裏山で兄さんの亡骸を見つけた時、僕は悲しみよりも感嘆の方が大きかった。何故かと言うと、もう命を失ったはずの器は、まるで生きているように美しかったからだ。
星臆病の患者が首を吊って死ぬところを何度も見てきたから、首吊り死体の悲惨さを僕たちは知っていた。けれども絶命してからさほど時間がたっていなかったせいか、頬は薔薇のように紅く染まっており、肌は雪のように白く、お揃いの蜜色の髪の毛はどこまでも柔らかく美しかった。 滅多に蘭服の襟を開けることがなかった兄さんが、首をくくるために開けていた襟からのぞく鬱血痕は生々しかったけれど。
兄さんはあの柔らかくも強さのある声で語りかけてくれることはもうないのだ。
あの母さんによく似た芯のある大海のような美しい瞳を永遠に瞑ったままになってしまった。
それに優しくも逞しい手で僕の頭を撫でてくれることも二度とないのだ。
そう思うと僕の目からも、確かに湯水のように涙が流れた。
感傷に浸りながら、隔離室でピアノを弾いていると、突然背後から扉をノックする音が聞こえた。
この部屋に入る者は隔離されるべきなのだから、外に出ては行けないけれど 無視することなどできずに扉を開けようとするが、鍵がかかっていて開けられない。試行錯誤を繰り返していると、ついに向こう側の人間が鍵を開けたようだ。 金属音とともに突っかかっていたものがどこかへ行ってしまうのを感じる。 そのままゆっくりと扉を開けると、そこには若い修道女が立っていた。 いや、修道女にしては若すぎるかもしれない。 年齢的には僕と同じくらいのはずだ。 ならば孤児院の娘か、 そんなものがここへ来てどうするつもりなのだろう。 そう思っていると、彼女は僕に向かって小刀を突き出してきた。
震える声は幼さをどこかに隠しており、無理に背伸びした感じがして居心地が悪かった。
「お前が母さんを殺したのか。」 極力彼女を刺激したくはないが、僕は星臆病の気狂いなどではない。 なんと失礼なことを言うのだ。 そう思い彼女を諭すように言った 「僕は星臆病の患者じゃない。 訳もないのにここに押し込まれたんだ。」
彼女の方僕と会話ができることに驚いたらしく、仕留め損ねた、とでも言うように俯くのだった。
続きます。




