こいのおと
「友達に戻ろう」
雪の降る日だった。
◇◆◇
「はい歩澄、あーん」
「…あ」
ケーキをのせたフォークが口元に運ばれる。
「おいしい?」
「……うん」
「よかった」
高嶺はいつも通り、嬉しそうに微笑む。
綺麗な笑顔。
ぼんやりと見ていると、またケーキが口元に運ばれてくる。
「無理しなくていいけど、できたら食べてね」
「うん…」
『好きなものなら食べられるでしょ?』と高嶺がケーキを買って俺を自分の部屋に誘うようになってからどのくらい経っただろう。
本当は学校から帰ったら部屋に閉じこもっていたいけれど、外の空気も吸わないとだめと、うち…北城家から歩いて二分の榎木家まで俺を連れ出すひとつ年下の幼馴染。
高嶺は昔から綺麗な顔立ちだったけれど、高一になった現在、しっかりと名は体を表して高嶺の花になっている。
それを言うと。
「うちの親が登山好きなのが悪いんだ」
恥ずかしそうにそう答える。
この見た目で性格も穏やかだからモテるだろうと思ったら、周りからは手の届かない存在になっているようで正しく“高嶺の花”。
そしてその高嶺は。
「大好きな歩澄と過ごせる時間が一番幸せ」
俺が好き。
どうして、なんの秀でたところもない俺なんだろうと常々考えているけれどわからない。
高嶺が言うには、年上なのに少し危なっかしくて放っておけないところが可愛い、と。
どこら辺を見たら俺を可愛いと感じられるのか…。
「はい、あーん」
俺が食べると高嶺は安心するから、本当はちょっと苦しいけれど食べる。
高嶺の俺への“好き”に触れる度に心に蘇る、他の“好き”。
『好きだよ、歩澄』
千歳の言葉が胸に響くと、寂しい結末を迎えてしまったのに心臓が初恋の音を鳴らす。
俺に“好き”を教えてくれた“友達”が忘れられない。
同い年の千歳と俺は、小学校の頃から仲が良かった。
友達だった千歳と付き合い始めたのが中二の時。
告白された時、千歳がそばにいると心臓が高鳴る意味がわかった。
千歳の『好き』にいっぱい笑って、幸せを知っていっぱい泣いた。
ずっと隣にいられると思っていたけれど、高一の一月に突然『友達に戻ろう』と言われた。
なにが悪かったのか、縋り付く術も知らず俺は頷き、呆然としたまま時が過ぎて高二に上がって今に至る。
食事が喉を通らなくなり、夜も眠れない。
そんな俺にすぐ気が付いたのが高嶺で、俺の好きなケーキを食べさせてくれるようになった。
たまにおにぎりとか雑炊とか、他のものも用意してくれる事もある。
食べ終わった後は『昼寝して』と高嶺のベッドに寝かされる。
手を握って、ただそばで見守ってくれる高嶺の優しさが申し訳ないのに俺は甘えてしまう。
ずっとなにも聞かずにいてくれる事が有難くも苦しくて、一か月ほど前にようやく俺は『付き合っていた相手に振られた』と話した。
口に出したら、振られた事が現実なんだと今更だけどはっきりわかって、目を逸らしていた真実に直面した。
高嶺はぎゅっと俺の手を握る。
「いつか新しい恋ができるよ」
自分を好きになって欲しいとは言わない。
忘れられない恋に縛られる俺を慰めて励ますだけ。
そんなのでいいのかと思うけれど、好きになって欲しいと言われてもそれができるかわからないからなにも言えない。
俺の心に千歳がいる限り、高嶺には迷惑をかけてしまうんじゃないか。
このままじゃいけないのに、力が入らない。
「…ごめんね、高嶺」
「謝る事なんてなにもないよ。歩澄の手を握っていられるんだから、俺はたぶん世界で一番幸せ」
「……ごめん」
泣き方も笑い方も忘れてしまった俺に微笑み続ける高嶺。
本当にこのままじゃいけない。
もっとちゃんとしないと。
早く立ち直らないと…。
高嶺は俺が傷付いているから、壊れ物を包むように、自分の気持ちを殺して俺に優しくしてくれているのかな。
◇◆◇
『…ごめんね、高嶺』
寝息を立てる歩澄の手を撫でる。
俺を好きになって欲しいと言う勇気がない。
うまくいけばいいけれどそうでなかった時、今の関係が壊れて修復できなくなるのが、拒絶されて二度と触れる事ができなくなるのが、…強引に心を開かせて歩澄を傷付けるのが怖くて言葉を呑み込む。
なにが正解なんだろう。
歩澄を焦らせたくない。
ゆっくりでいいから、相手が俺じゃなくてもいいから、また笑ってくれるならそれでいい。
でも優しくさせて……もし歩澄が俺を見てくれたら、そんな奇跡は他にないから。
◇◆◇
学校に行くのも憂鬱だったりする。
でも千歳に会いたくないからって行かないというわけにはいかない。
一歩一歩が重たい。
「おはよ、歩澄」
「…おはよう、千歳」
教室には今年度で同じクラスになった千歳がいた。
なにも変わらない笑顔。
俺達の関係は綺麗に“友達”になっていて、もうそれに馴染んだ千歳は俺に宿題でわからなかったところを聞く。
表情が引き攣らないように気を付けながらノートを見せると、千歳がそれを覗き込む。
距離が変わっていないようで、やっぱり変わっている。
その証拠に千歳は俺の手とぶつかった自分の手をすぐに引っ込めた。
友達ってなんだろう。
別れの原因さえ教えてもらえなくて、いきなり友達に戻らされた。
問い詰めたらよかったんだろうか。
泣き喚けばよかったんだろうか。
流れ星を探して願い事をしたなら、好きだと伝え合うふたりに戻れるだろうか。
それなら俺はこれから毎夜、空を見上げる。
いつまでもいつまでも、初恋が戻ってくるまで。
………俺はまた過去を見ている。
◇◆◇
高嶺が買ってきてくれるケーキは、俺達が小さい頃から駅前にあるケーキ屋さんのもの。
スマホで高嶺のトーク画面を開く。
『ケーキ、一緒に買いに行きたい』
送信。
「……」
前に進みたい。
でも忘れたくない。
俺しか知らない千歳を、俺が忘れてしまったら消えてしまう。
それが在った事、確かに愛してもらえていたという事実を失くしたくない。
スマホが小さく震える。
『じゃあ一緒に行こう』
少しは安心させる事ができるかな。
忘れたくないけど、いつまでも初恋を掴み続ける自分も悲しい。
このまま静かに静かに力が抜けて行って、立ち上がれなくなってそのままになってしまうかもしれない。
高嶺に迷惑をかけっぱなしなのも苦しい。
「…高嶺…」
本当は高嶺には俺じゃない誰かを好きになって幸せになってもらいたい。
こんな俺じゃ、いつまで経っても寄りかかるばかりだからよくない。
でも俺の中に、高嶺まで離れて行ってしまうのは…と思う気持ちもあって、すごく自分が嫌だ。
俺が千歳に縛られているように、高嶺を縛り付けている自覚はある。
それでもその鎖を外してあげる事ができない狡さに、きっと高嶺は気付いているのに微笑みが消えない。
甘え続けて寄りかかり続けて、俺はなにをしているんだろう。
「歩澄」
放課後、教室に高嶺が来た。
「一緒に帰ろう? それでケーキ屋さん寄って行こうよ」
「うん」
ご機嫌だ。
通学バッグを持って高嶺と教室を後にする。
「♪」
鼻歌歌ってる…。
「どうしたの?」
「ん?」
「機嫌いいね」
「うん。歩澄が一緒にケーキを買いに行きたいって思ってくれた事がすごく嬉しいんだ」
こんなに喜んでくれるんだ…よかった。
電車に揺られて自宅最寄り駅で降り、駅からすぐのところにある小さなケーキ屋さんに入った。
「なにが食べたい?」
「…う、んと」
「ゆっくり考えていいよ」
「うん…」
可愛いケーキが並んでいて、でも選ぶってなるとなんだか呼吸が詰まってくる。
どうしよう…。
焦りで息苦しさを感じ始めると、ぎゅっと手を握られた。
「焦らなくても大丈夫だよ。歩澄のペースでいいんだ」
俺のペース…。
息苦しさがすっと消えて呼吸が楽になる。
同時に石を呑み込んだような感覚。
お腹の中になにかが溜まっているような違和感がある。
「…高嶺はアップルパイが好きだよね」
「うん」
「俺、高嶺のアップルパイ買うから、俺のケーキは高嶺が選んでくれると嬉しい」
高嶺の優しさになにも返せない自分が苦しくて、だからってアップルパイで済ませようというわけではないけれど、それでもなにかを返さないとお腹の中が石でいっぱいになってしまいそうだった。
自分が満足するだけなんだけど、それでも高嶺になにかを返せるならそれがしたい。
「わかった。じゃあ俺が選ぶね」
そう言ってすごく真剣にショーケースのケーキを見る高嶺。
きっといつもこうやって悩んで選んでくれているんだ。
俺は店員さんにアップルパイをひとつお願いして、先に会計をする。
「決めた。フルーツタルトでもいい? フルーツが綺麗でおいしそう」
「うん。高嶺が選んでくれたなら」
「……っ」
俺の答えになぜか高嶺が言葉を詰まらせ、切なげに眉を寄せる。
「高嶺?」
「…あ、うん。じゃあフルーツタルトにする」
はっとしたように笑顔に戻る高嶺。
会計を済ませてふたりで店を出るけれど、なんだか不安になる。
高嶺のあんな悲しそうな表情、初めて見た。
理由を聞いていいのかわからなくて少し俯いて歩く。
「……俺、歩澄が好き」
「え?」
「歩澄がすごく好きなんだ」
顔を上げると高嶺の真剣な瞳が俺を映している。
立ち止まった俺の手を取り、ぎゅっと握る。
「歩澄に俺を選んで欲しい」
「高嶺…」
「傷付いてる歩澄を見てるの、俺ももう辛い。また笑って欲しい」
「……」
思わず目を逸らしてしまう。
逃げるつもりはないけれど、まっすぐな視線を受け止められなかった。
「早く元気になって欲しいし、新しい恋に目を向けてもらいたい」
こんな時でも優しい声音。
ゆっくりと紡がれる言葉は温かくて怖い。
「本当は、過去の恋人に縛られてる歩澄に優しくするのも辛い」
「え…」
「だって俺がなにをしても、なにを言っても全部歩澄の心を素通りしてるんだよね?」
「……」
そんな事ない、全部受け止めてる。
でもうまく答えられない。
詰まった言葉を呑み込むと、また石が溜まっていくようにお腹が重くなる。
「歩澄が傷付いてるから優しくしてるんじゃない。俺を見て欲しいから優しくしてる」
「高嶺…」
「俺じゃなくてもいいとも思ってたけど、やっぱり好きな人の心がどこかに行っちゃうのは……今度は俺が笑えなくなるかも」
笑って見せる高嶺が泣き出しそうで、心臓がぎゅっと痛くなる。
どうしたらいい…?
できるなら、高嶺にいつでも笑顔でいてもらいたい。
俺はどうしたら高嶺の気持ちに応えられるんだろう。
…どうしたら千歳から心を離せるんだろう…。
「あの…高嶺…」
「無理なら振って。絶対諦められないけど」
「……」
握られた手が熱い。
でも高嶺の手は指先が冷たく、小さく震えていて、それだけ俺に真剣に向き合ってくれているとわかる。
視界の中に行ったり来たりする千歳の影。
クラクラしてぐるぐるする。
だんだん自分の形がわからなくなってきた。
「…ごめん。ちょっとだけ待って」
「うん。俺こそごめん…こんな道端で。帰ろう?」
「……うん」
軽く手を引かれて歩き出す。
そういえば小さい頃からいつも高嶺は俺の手を引いてくれていた。
この優しさに引かれて、もう一度歩き出せるだろうか。
見上げると、曇り空からうっすら陽が射している。
「紅茶淹れてくるから待ってて」
「うん」
高嶺の部屋で、言われた通りに待つ。
ひとりで座っているととても寂しい。
柔らかな手触りのラグを撫でながら高嶺の言葉を思い出す。
『歩澄が傷付いてるから優しくしてるんじゃない。俺を見て欲しいから優しくしてる』
心を覗かれたのかと思った。
どうして俺の考えていた事がわかったんだろう。
でも、高嶺の優しさの理由を知ってほっとしている部分もある。
無条件に優しくしてくれているんじゃないと知って安心した。
ちゃんと自分を持っていてくれてよかった…。
「……俺は、千歳を諦められるかな」
「え?」
「あ…」
呟きの後に驚きの声が聞こえて顔を上げる。
カップがふたつ並んだトレーを持った高嶺が俺を見ている。
「歩澄の付き合ってた人って、谷嶋先輩なの…?」
そういえば言ってなかったかもしれない。
頷くと高嶺がトレーをテーブルに静かに置いて俺の手を握る。
「…相手の人、女子だって勝手に思ってた」
「……言ってなくてごめん…」
「それならやっぱり俺は歩澄を諦められない」
「……うん」
「俺、たとえ振られても歩澄を諦めないから」
「……」
強い視線。
俺は握られた手の力を抜いて、温もりを素直に感じた。
◇◆◇
日が経つにつれて高嶺の言葉が心に大きく膨らんでいく。
優しさは高嶺自身のため。
高嶺が求めるのは俺。
……俺が求めるのは…?
なにかに応えるってすごく難しい。
間違えたくないと思うから慎重になる。
また失う事も怖いし、傷付ける事も怖い。
なんだか空中をずっと漂っているみたいだ。
どこにたどり着いたらいいかわからない。
ふわふわ浮いて、ふわふわと沈んでまた浮かんで。
こんな状態でいたらそのうち本当に自分を見失ってしまいそう。
「歩澄、大丈夫?」
「え?」
「なにか心配な事あるの?」
高嶺が俺の顔を覗き込む。
あの告白から高嶺はちょっと距離が近くてびっくりする事がある。
同時に心臓がとくんとくん早く脈打つ。
……千歳の時みたいだ。
「ううん。平気」
「そう? じゃあ、あーん」
「…もう自分で食べられるよ」
「知ってる。歩澄がちょっとずつ元気になってきてくれて嬉しい。だからあーんして」
「……」
ゆっくり口を開ける。
今日はイチゴのショートケーキ。
甘酸っぱいのは…千歳の『好き』。
それと、高嶺の優しさ。
「……高嶺、手握ってもいい?」
「いいよ」
こちらに手を伸ばしてくれる高嶺。
その手を恐る恐る握ると、とても温かい。
知っているようで知らなかった高嶺の温もり。
触れていたのに、俺がわかっていなかった。
「…俺、千歳を忘れたくない」
「うん」
「でも、もう立ち止まりたくもない」
高嶺の手を両手で包む。
「歩澄…」
「高嶺が俺の手を引いてくれたらいいなって思う」
「……いいの?」
「自分で歩き出す勇気がなくてごめん。でも、高嶺と進んでみたい」
「うん…」
「ずっとそばにいてくれてありがとう」
「これからもずっと歩澄のそばにいるよ」
ほろほろと高嶺の頬を涙が伝っていく。
慌てる俺に泣きながら笑いかける高嶺は、今までで一番嬉しそうだ。
「泣かないで、高嶺…」
「なに言ってるの」
高嶺が俺の頬に触れる。
「歩澄だって泣いてる」
お互いの涙を拭って深呼吸する。
そっと手を握って、ぎゅっと握られて、もう一度深呼吸。
どちらからというわけでもなく抱き締め合うと、また涙が零れた。
とくんとくんとくんとくん…ふたつの恋の音が重なった。
◇◆◇
年の離れた姉が離婚した。
リビングで缶ビール片手に俺に絡んでくるから、仕方なく向かいに座って話を聞く。
「やっぱり友達は友達でいないとだめだった」
「え?」
姉は、仲の良い男友達と付き合って、そのまま結婚した。
友達から恋人への関係の変化、そしてずっとそばにいる。
歩澄とそんな風になりたいと思って勇気を出して告白したのは一昨年。
幸せで、何度『好き』を伝えても足りなくて、どうしようもなく歩澄が愛しくて。
この気持ちはいつまでも変わらない、そう思っている。
「でも、好きだったんでしょ?」
心臓が嫌な音を立てる。
姉は俺の問いに寂しそうに笑う。
「好きだから友達でいたほうがよかった。だってもう私達、友達には戻れない」
友達に戻れない。
歩澄との関係が悪くなる事なんて想像したくないけれど、もしそうなってしまったら、俺達は離れるしか選択肢がなくなる…?
「千歳に言ったって仕方ないんだけどね。…過去に戻りたい」
「……」
怖い。
友達以上が恋人だと思っていた。
でも違う?
経験者の口調からは、友達以上が恋人で、恋人以上が友達のように聞こえる。
ずっとそばにいたいなら、友達のほうがいい…?
たぶん、俺は怖かったんだ。
歩澄を失う事以上に、自分が後悔する事が。
「友達に戻ろう」
歩澄の差す傘にのった雪が滑って、とすんと地面に落ちた。
好きだから…大好きだから。
歩澄がなにより大切だから。
ずっとそばにいたいから、友達でいさせて。
「歩澄、帰ろう」
「うん」
抜け殻のようだった歩澄が少しずつ口元を緩めるようになった。
その視線の先にいるのは歩澄の幼馴染。
俺は大きな間違いを犯したんじゃないか。
結局後悔している俺。
友達としてそばにいる事を選んだのに、歩澄が笑うのが俺のためじゃない事に心が灼かれる。
でも戻れない。
俺も過去に戻りたい……あの頃のふたりに。
そうしたらもう二度と絶対、なにが起ころうと同じ間違いを犯さないのに。
…なんて、今更どうにもならない。
俺が種を蒔いたんだ、その結果を刈り取らないといけない。
わかってる。
わかってるのに悔しくて苦しい。
俺の前を通り過ぎる歩澄と、歩澄の幼馴染を見送る。
友達でいるから、見守らせて。
――――恋の音は止まないけれど。
END