鏡花読書~時雨の姿、伊達羽子板
先にアップした「鏡花読書~町双六」の続きです。
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『時雨の姿(雨夜の姿)』(大正六年一月)
夕暮れが迫る金沢の町で、大きな笠を背にした少年が先を急いでいる。畑雪次郎という七、八歳のその少年は、肺病で長らく床に就いた母の恢復を願って、学校帰りに鬼子母神への日参を続けていた。
謡曲『橋弁慶』のシテ、武蔵坊弁慶にまつわる詞句を織り込んだ音楽的な文章で、初期の『照葉狂言』を思わせる叙情世界が描かれる。
その帰り道、下駄の鼻緒が切れて立ち往生する少年を、年上の少女が助ける。少女は棒飴などを売る貧しい物売りの娘で、誰にも相手にされなかった時雨の夜に、職人(漆器の?)である雪次郎の父の工房がたくさんの菓子を買ってくれた恩を忘れないでいた。物売りの声を聞いて飴を買うように言ったのは雪次郎の母で、使いに出て買ったのは雪次郎だった。
やがて少年少女は霰に降られながら、お互いの家庭環境の寂しさ、辛さについて語り合うのだが、それを物陰で泣きながら聞いていたお雪と次郎八という若い男女がたまらず駆け寄ると、自分らの下駄や傘を与えて世話を焼く。
じつはお雪と次郎八は、心中の地へと向かう途中である。傘に書かれた雪次郎という少年の名を見て、自分たちが一つになった名であることに、彼らは不思議な縁を感じるのだった。
鏡花小説中にくり返し描かれてきた少年時代の一場面が、世界を読み換える付句を添えたように、一気に心中ものに転換する妙。少年が背負っていた笠という意外な要素が、二つの別の世界をつなぐことになる。
自身が創造してきた少年期の思い出の世界に、連句的な発想で別種の世界を取りあわせる、鏡花独特の技法が冴える一篇だと思う。
気になるのはお雪次郎八のお雪という女の名で、これは前作『町双六』で赤ん坊の母親だとされた女の名である。
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『伊達羽子板』(大正六年一月)
『時雨の姿』に続いて、本作にも雪次郎少年が登場する。しかし物語の中心は、病床に伏せる少年の母、お千である。
雪次郎の父親は蒔絵の職人、母親は江戸生まれで水木流の日舞の師範ということにされていて、前半では同じく東京から来た髪結いの目を通して、優しい姑や母思いの息子に見守られながらも、切迫した病状にあるお千の姿が描かれる。
驚くべきは終盤。危篤の兆を見せたお千が、部屋に飾られていた羽子板を手にすると、「不思議なばかりの手の冴え」を見せて羽根つきをはじめる。あまりのことに気を取られた雪次郎は、二階の病室の窓から転落する。
塀の高さまで降り積もっていた雪に、仰向けに落ちた雪次郎は、さし覗く母親の顔を見てにっこりする。お千が羽子板をサッと後ろに引くと、雪次郎の体は二階まで飛び上がって、病室の炬燵の上に乗ったのである。
……予想外にも程がある。なんと奇抜な芸の奇跡譚だろう。
お千が操った羽子板の押し絵は「宝生太夫父子の面影を映したもの」だとあって、これは観阿弥の兄だとされる宝生太夫周辺の、宝生流の起源にまつわる伝説にちなんだ図柄なのか。
宝生流は金沢で盛んな流派であり、鏡花の母、鈴は能楽の大鼓方であって、兄の金太郎は宝生流松本家の芸養子となった。いっけん唐突に登場したかのような羽子板であるが、芸の血筋を強調する要素として意図的に配置されたもののようだ。
『町双六』で侠気、『時雨の姿』で可憐を見せる各ヒロインに対して、ここでの母親は、芸道の化身としての崇高な姿を見せる。
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さて、岩波全集巻十七の(春陽堂全集巻十でも同様の)掲載順に『町双六』『時雨の姿』『伊達羽子板』の順で並んだこの三篇はすべて大正六年一月に発表されたものだが、掲載誌はそれぞれ別であり、独立した短篇である。
これまで『町双六』は墓参小説として、『時雨の姿』と『伊達羽子板』は金沢を舞台にした、筋に繋がりのある作品として取り上げられていたようなのだが、今回、この三篇を続けて読んで、ひとまとまりの連作として捉えていいのではないかと思った。
①『時雨の姿』
②『伊達羽子板』
③『町双六』
の時系列順で、まるで連句のような感性的なつながりをもって並べるべき作品ではないかと。
もしそれが鏡花の意図だったとしても、別々の雑誌に掲載され、単行本にも三篇並べて収録されなかった発表当時は、誰にも気づかれなかったのではないか。
舞台はすべて金沢であり、①『時雨の姿』と②『伊達羽子板』は、雪次郎少年と、病床にある母への恋慕でつながっている。②『伊達羽子板』ではその母の死が未来の出来事として記述され、成長後の雪次郎を思わせる由紀之助という青年が母の墓を訪れる③『町双六』では、従妹のお鶴とともに①『時雨の姿』のお雪次郎八の心中を繰り返すような挙動を見せる。そして亡き母は、慈悲深い幽霊として復活する。
また、③『町双六』の赤ん坊は、「二歳になるお雪(①に登場)の子である」と書かれ、その場面では町方から「追羽根(②の羽子板遊び)の音がカチリ〳〵と天に響」いている。③『伊達羽子板』では髪結のお吉によって新地の芸者(①のお雪の職業)が言及され、一本松(①のお雪次郎八の死に場所)で「去年時雨の頃に心中があった」と回想される。①『時雨の姿』で情死をした次郎八は型附職人だとされていて、同じ地元の職人同士、①・②で素描される雪次郎の父となんらかの縁があったのかもしれない。
三篇は上記のように密接な、同じ長篇のなかの三つの断片といってもいいほどの関連をみせながらも、これを一つながりのストーリーとみなすには、
・①の雪次郎と飴売りの少女のカップルには、③のお鶴と由紀之助のカップルとの立場的なつながりがない。
・③の赤ん坊を①のお雪の子だとして、何かの縁で引き取った子どもを育てているのだとすると、雪次郎の成長した姿が③の由紀之助であるとみなすには、時間が経ちすぎている。
――という齟齬が発生する。
けれどもこれは鏡花が、自身の幼少期と重ね合わせた雪次郎という少年が、自身の母親と、母親の代理として愛する女との関係が立場を変えて何度でも甦るさまを、あるいはもしもの別世界においても、切っても切れないつながりを持ち続けているさまを描いているのではないだろうか。
つまりこの三篇は、同じ物語世界の十数年の時間経過のなかで、雪次郎・次郎八・由紀之助という同一人物の生まれ変わりである男たちに対して、飴売りの少女・お雪・お鶴といった、これも生まれ変わりの女たちが母の代理としての相似的な愛のかたちを見せる、時間の流れを圧縮するめまぐるしさをもった輪廻転生の連作として書かれたのではないか。
こうした一種の並行世界的な発想は、歌舞伎における世界観のない交ぜの手法とも合致するのだし、プルーストが『失われた時を求めて』の作品のベースとした解離的世界観とも、あるいは選択肢によってルートを選ぶプレイ方法によって、そもそもが並行世界が存在することを前提として作られている近年の美少女ゲーム(いわゆるストーリーゲー)的な発想の創作物とも共通している。
いかに強引な読解であるとはいえ、一読者としては、実際にそうとも読めてしまうことが重要なのであって、無理にでも自分の側に引き寄せて、方法的には示されずに隠されているさまざまな解釈を見つけることが、今、鏡花小説を読むということの意味の一つだと思う。そして、こういった、隠された意味に気づいたとき、鏡花小説は伝統的というよりも、むしろ未来的であると感じてしまうことが多い。




