鏡花読書~町双六
『町双六』(大正六年一月)
金沢に帰郷して母の墓参をするさまを描いた(あるいは、墓参のための帰郷に伴う物語を描いた)、鏡花のいわゆる「墓参小説」の一つ。
鏡花小説の読解に関わる内容がバランスよくまとめられて、入門書としても資料としても役立つNHK文化セミナーのテキスト『泉鏡花 美と永遠の探究者』(吉田昌志)には、次のような作品が「墓参小説」としてあげられている。
『一之巻』(明29.5)、『笈摺草紙』(明31.4)、『立春』(明32.1)、『縁結び』(明40.1)、『国貞ゑがく』(明43.1)、『町双六』(大6.1)、『卯辰新地』(大6.7)、『由縁の女』(大8.1-10)、『夫人利生記』(昭2.4)、『卵塔場の天女』(昭2.4)、『ピストルの使い方』(昭2.9-3.3)、『縷紅新草』(昭14.7)
同じ内容を扱ったものとして並べられたこれらの作品が驚くほど多種多様であることが、同趣向を繰り返すことを嫌う鏡花の特徴をよく表しているのだし、本作もまた、型に納まらないタイプの小説になっている。
金沢に帰って母の墓参りをする主人公の由紀之助に、従妹のお鶴が同行するという設定は『由縁の女』や『縷紅新草』と同じである。しかしこの二人、なにやら訳ありの様子だ。乳母車に乗せた赤ん坊を連れていて、誰の子なのか明記はされないのだが、「二つになるお雪の子である」という一節がある。
お雪とは誰なのだろう。少なくとも作品内に雪という女性についての言及はない。途中、授乳をする場面で、お鶴は「若い母さん」と書かれているから、「お雪」は「お鶴」の書き間違いなのか。まさか「由紀」とも呼ばれる由紀之助が父親だという意味ではないだろうから、あるいは同時に別の雑誌に発表されて、お雪という芸子が姿を見せる『時雨の姿』の続篇として書いたつもりなのか。
さらなる校訂の結果によっても読み方が変わってきそうだ。
そのあたりは、次に『時雨の姿』について書く日記に譲ることとして……。
由紀之助とお鶴は、従兄妹ながらも恋仲らしい。この二人がかくれて逢うたびに、家族によって引き離されたお鶴は土蔵に閉じこめられたのだという。そしてつい先刻、由紀之助と離れるのが辛くて、家の土蔵が燃えるように火種を置いて来たのだと、お鶴は告白する。
そのことば通り、眼下に見下ろすお鶴の家から火の手が上がった。町を焼くことになったお詫びだと、二人は心中を決意する。
死地に向かった二人が置いてけぼりにした乳母車から、火のついたように泣きだした赤ん坊を、端麗なる夫人が抱き上げて言う。
「困った子どもたち」
泣き声を聞いて戻ってきた由紀之助とお鶴は、すやすやと眠る赤ん坊と、火事など幻のように消え去った町の景色を見た。
短い紙数のなかに大胆な省略を施した出来事が詰めこまれていて、鏡花の過去作品を知らなければ、何が言われているのかが理解しづらい。最後に登場する「端麗なる夫人」は、若くして死んだ由紀之助の母の亡霊で、若い二人のために奇跡を起こしたのである(この結末すら、鏡花の母が若死にをしたということを知らなければ読み取り難い)。
なるほど、題名の「町双六」とは、鏡花がこれまで書いてきた金沢での出来事を、絵双六の絵のように回想するという意味なのか。
金沢向山の中腹にある宝泉寺から城下を見下ろしながら、『一之巻』~『誓の巻』の女教師ミリヤアドの思い出や『五本松』にまつわる怪異や火事の夜の記憶を、これまでに書いてきた墓参小説に絡めながら、どうやら絵双六に描かれた絵を見るように振り返るという趣向のようだ。そして、主人公と共にサイコロを振るお鶴は、『さゝ蟹』『女客』(そして後に書かれる『由縁の女』『縷紅新草』)のヒロインのモデルになった、鏡花の又従妹の目細てるに違いない。
……そんなふうに納得しかけていたのだが、「金沢宝泉寺 金沢ーの絶景」というウェブページから、「五本松宝泉寺、金沢市「眺望点」に選定さる!」という記事の下のほうに添えられた写真を見て驚いた。
篇中に書かれた「城下の町は、川も、橋も、白も森も、天守の櫓も、処々に薄霞した一枚の絵双六の風情である」という描写は誇張でも幻想でもなく、まさに金沢の町並みがボードゲームの盤のように見えている。おまけに「金澤勝地賑雙六」というゲームまで実際に作られていたという。
全篇が詩文のような調子で書かれたこの短篇の発想の源は、案外即物的な事柄だったのかもしれない。




