鏡花読書~通い路、木曽の紅蝶
『通い路』(大正五年十一月)
歌舞伎の女形、菊三は、死に場所を求めて伊豆の伊東温泉に宿を取っていた。同じ宿に、脚気の治療のためにやって来た明大の学生と、神経衰弱だと称する某大学の文科生が来合わせて、いつ死んでもいいが急いで死ぬ必要もない三人の若者がなんとなく意気投合する。
そこへ第四の宿泊客として、天人が天降ったかと思われる美女が現れた。色めき立つ三人ではあったが、宿の女中から伝え聞く女客の様子は、どことなく暗い影を帯びている。はたして三日後の夜、女は姿を消した。従業員総出の探索のさなか、三人客立ち会いで荷物を調べたところ、御勘定と表書きされた包みが残されていた。
すわ自殺かと海岸へ飛び出した三人は、やがて崖の下に浮いた女の死骸を見つける。海中での苦痛を物語るかのように、女の白足袋がぶくぶくと膨れていた。
身元不明者としての型どおりの葬儀が済んだ夜、湯殿に向かった三人のうち、窓の向こうに死んだ女の小袖が翻っているのを見つけたのは菊三だった。着物のなかに姿を浮かばせた幽霊は三人に向かって、「足袋を脱がして……」と訴える……。
「困るのは、凄かるべき話が何故か可笑しく聞こえる事である」と小説の末文にあるように、怖がらせるための怪談ではない。いささか遊戯的に自殺を考えていた若者たちが本物の死の恐怖に直面して慌てふためくさまを可笑しがる、落語のような味わいの一篇だった。
死んだ女が「歌留多を縫った丸帯」を部屋に残したことが、次作『木曽の紅蝶』で現れる、伊豆で自殺をしたのだという女の幽霊と共通していて、ちょっとした予告のようになっている。
また、自殺志願者の菊三は、鏡花には珍しく旧派(つまり歌舞伎)の女形ということになっている。鏡花小説においては、主人公や重要人物に新派俳優が据えられることが多いのだが、ことさら情けない役柄に歌舞伎俳優がここで当てられるのは、作者の新派贔屓ゆえなのか。
ところでこの短篇を読んでどうしても思い出してしまうのは、太宰治の『道化の華』のことで、言わんとすることはまったく違うのだが、一人の自殺志願者に二人の若者が合流して、退屈な療養生活での喜劇的な雰囲気が醸されるなか、ある女がクロースアップされて……という基本的な設定が奇妙なほどに一致している。
他愛のない空想に過ぎないのだが、太宰治がたまたま読んでいた鏡花のこの小説のことを、『道化の華』を構想する際に思い浮かべていた、などと考えてみるのも面白い。
全集以外にもアンソロジー『おばけずき 鏡花怪異小品集』 (平凡社ライブラリー)に収録されている。
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『木曽の紅蝶』(大正五年十二月)
大正九年に発表された『唄立山心中一曲』https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3653_26096.html の冒頭では、鏡花が小村雪岱と旅行をしたときのことが回想される。この旅行は具体的には、大正二年十一月八日に小村雪岱と堀尾成章とともに出かけた二泊三日の信州旅行だったことが、近年あきらかにされたらしい(論文:田中励儀「泉鏡花の信州旅行―大正二年の旅から生まれた小説」参照)。
ほとんどの場合、実際に足を運んだ場所を小説の舞台にしている鏡花ではあるが、定住していた金沢や東京に対して、旅先でしかなかった諸地方は、より空想的な物語の舞台になりがちな印象がある(逗子ものには両方の要素が絶妙に混ざっている)。
信州(長野県)木曽を舞台にした本篇にも、まだ記憶に新しかった信州旅行の印象が含まれているに違いないのだが、上の論文には長野で一泊、上諏訪でもう一泊して中央線で東京に帰ったとあるから、より山深い場所にあった駒ヶ根村(現駒ヶ根市)を訪れたわけではなくて、『高野聖』の場合と同じように、その土地にまつわる話を聞くなり読むなりして舞台に選んだのだろう。
木曽の山奥らしき雰囲気は横溢するものの、土地の名を駒ヶ根村としただけの、修辞で作られたファンタジー世界である。
駒ヶ根村光蓮寺の住職、卓顛和尚は、幽霊などいないと騒ぐ村の若者たちに、寺に泊まって幽霊を見よと言う。その夜の丑三つ時、卓顛和尚と美少年のお小僧、卓童が導いた墓所には、伊豆で自殺をした村の御新造だという女の幽霊が現れる。
実はこの幽霊は、村人を済度する方便として住職が仕組んだ狂言で、実際は豪農松村の妾、お小夜が扮したものだった。
ほどなく、空から小蛇が降る珍事に遭遇したお小夜は、日頃から信心する弁天様の使いだと主張し、離れに籠もって二十一日間の精進潔斎をする許しを旦那から得る。けれども潔斎とは口実に過ぎず、離れには毎晩、美少年の卓童が通って、逢瀬を楽しんでいた。
ある朝、離れでうっかり寝坊をして慌てて寺に戻った卓童を、卓顛和尚が一喝する。前夜にお小夜とふざけあった卓童は、女の扱き帯を締めたままでいたのである。
卓童は戒めのため、木曽川の急流にそそり立つ大巌の頂にある御堂に閉じこめられる。折しも鉄砲水が発生し、卓童の安否が気遣われるなか、寺を訪れたお小夜は、お小僧を許してほしいと卓顛和尚に訴えるのだが……。
この時点で物語は、実ハ、実ハですでに二転しているのだが、終盤にいたってさらに、ありえないどんでん返しが待ちかまえている。
お小夜は伝法な悪女の、卓顛和尚は上州無宿の宅五郎というお尋ね者の正体を見顕して見得を切る。刃物沙汰のすえに宅五郎を刺殺したお小夜は、卓童を助けようと、濁流に取り残された御堂に向けて帯を投げるのだが、そのまま高波に吞まれてしまった。無念を残して幽霊になったとされた女の帯の絵柄の歌留多が、きらりと月影に冴える。
――語られた内容が二転三転。次々と無効になって、無意味化される。読後に残るのは、詳細に描写された木曽の山里の自然美と、そこへ紅い蝶のように舞った帯のイメージである。それがいかにも鏡花らしい。
ありえなそうな筋立てのなかでももっとの奇抜なのは、寺の和尚の正体がお尋ね者だったという一件だが、案外それだけが人から聞いた実話であって、そこからストーリーを組み立てたのではないかという気もしている。
作中で空から落ちてきた蛇について、松村家の老僕が「岩徹という蛇じゃ。壁などは愚なこと、岩をすぽりと抜いて行くだ」と言うのだが、「岩徹」の典拠がわからない。
似たイメージのことばとして、「蛇抜」というのがあって、これは「長野県木曽地方を中心とする方言で、土石流、あるいは土石流災害を表す言葉である。山崩れが原因で発生する土石流、あるいは山崩れの土砂が河川をせき止め、その後決壊して発生する土石流などを指す。蛇抜の同義語には山津波や山抜、山潮などが挙げられる。」(実用日本語表現辞典)ということばなのだそうだ。
物語のクライマックスには土石流が発生するのだから、あるいは、旅先で知った木曽の方言から連想された小説なのかもしれない。




