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こりすま日記  作者: らいどん


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鏡花読書~萩薄内証話

 初期作品から大正五年の作品にワープしたら、いきなり変化球的な作品に当たって戸惑ってしまいました。





萩薄(はぎすすき)内証話(ないしょばなし)』(大正五年十月)


 新吉原の妓楼、翠明楼(すいめいろう)の遊女、お妻は、ふとしたきっかけで知り合った大学教員の波崎俊吉と相思相愛の仲にある。ところがお妻には杉丸(すぎのまる)男爵というパトロンがいて、彼女を片時も離そうとしない。男爵は傲慢な酒乱ゆえに女たちから嫌われて、白天狗と渾名されている。

 冷たい雨が降る夜、波崎がお妻に逢いに来たとき、折悪しく杉丸男爵が取り巻きを引きつれて登楼した。波崎は茶の間に隠れてお妻と密会するが、彼女が座敷に呼ばれるたびに気を揉んでいる。

 男爵が帰った後でお妻は、帰宅する波崎を見送りながら楼を出る。その頃、翠明楼では、一人で戻ってきた男爵が「お妻を出せ」と怒鳴りながら青竜刀を振りまわして、乱暴狼藉の限りを尽くしていた。

 波崎とお妻が未練たらしく別れを惜しんでいるうちに、雷雨に降られた雷恐怖症の波崎は怯えきってしまう。お妻は男子禁制の遊女たちの寝室に彼をかくまうことにする。

 二人が同衾した寝室に、男爵が飛びこんできた。波崎はすっくと立ち上がり、「男爵が何だ、華族が何だ」と言い放つと、刀を引っさげた酔漢からお妻をかばうのだが……。


 金と権力で女を欲しいままにする悪人を、弱い男がやり込めるのか、あるいは死をもって一矢を報いるのか。

 ところが男爵は案外冷静で、自分の金で罪を免れる範囲で痛めつけようとするつもりでいる。続いてやって来た妓楼の総取締の老婆は、男爵の乱暴は遊廓のお大尽として許せる範囲であり、お妻の家族をも養っている身としては当然のこと、自殺や心中などされてはただの迷惑で、波崎こそ妓楼の厄介者だと冷淡に告げる。それどころか波崎とお妻が楼を出るときに開けっぱなした垣の穴から泥棒が入って、甚大な損害が出たのだという。

 男爵はすべて、金で解決してやろうと言う。貧乏人の波崎はまったく立つ瀬がなく、嘲笑する男爵に「人間に成って、又会うおうぜ」と捨て台詞を吐いて、悔し涙を流すしかない。


 結局、お妻は男爵に連れ去られて、波崎は知・情・意のバランスを完膚なきまでに破壊された、哀れな存在に成り下がってしまう。正義が悪党をやり込める話なのかと期待していた読者は肩透かしを食らうのだが、後味は悪くない。世間にも女にも甘えて愛人を気取っていた大学の先生が悲痛な経験を経て、精神的に丸裸な「人間に成」るという思いもよらぬ変化が、その後の起死回生を予感させるからかもしれない。

 奇跡や死による浄化を常としていた鏡花小説の、マゾヒスティックではあるが意表を突いた定型(パターン)崩しが印象に残る好編だと思う。



 篇中では「なにがし公園の緑の中なる()の翠明楼」とされているのだが、波崎や男爵の住所(麻布と品川)や近隣の寺社の描写からして、浅草公園周辺を舞台とした話のようだ。浅草公園とは(この小説の頃には)浅草寺を中心に、南は雷門から北は花屋敷までの地域を指していた。実質的には歓楽街として発展した(現在でもそこを歩けば特殊な地域性を感じさせる)場所なので「公園」という名称に違和感があるが、明治六年から昭和二十二年までは、東京府(都)が公園地として指定していたのである。

 妓楼が集まっていた新吉原は公園の北西に接するような場所であって、公園内ではない。「なにがし公園の緑の中なる」とは、「なにがし公園に連なる緑の中なる」という思い入れで書かれているのだろうか。


 また、主人公の波崎が雷を怖がるのは、鏡花自身の雷恐怖症が重ねられている。

 実際に鏡花が雷を恐れる様子はしばしば他人に目撃されて、目撃者の文章や談話に残っているようなのだが、なかでも印象的なのは十和田操の『押し入れの中の鏡花先生』という随筆内で描写されていたとされる様子である(吉村博任『パラグラフィ双書5 泉鏡花 芸術と病理』に、十和田自身が書き直したものが抜粋されている)。

 鏡花の番町の家を訪ねた筆者(十和田)が鏡花と対談をしていると、雷が鳴った。すると鏡花は一瞬にして押し入れの中に姿を消した。ところが、押し入れの中でぶるぶる震えていたわけではない。古雑誌を手にして、平気な顔で読みふけっていた。

 雷は恐いから身を隠す、という強固なメンタルモデルが形成されて、たとえ雷に恐怖を感じていなくても同じ行動を取り続けざるをえない、強迫症ともいえる状態だったようだ。


 鏡花の作品には、鏡花自身を思わせる登場人物がしばしば登場するのだが、それでいて私小説からは遠い存在だった。というのも、私小説作家と呼ばれる人たちが「私小説」の語義通りに「私」ごとを小説化したのに対して、鏡花の場合、自作内の美意識や様式感を「私」の普段の生活に、脅迫観念的に適用し続けていたのだから、いわば「逆私小説作家」とでも言わなければならないような一面をことさら強くもつ作家だった。


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