鏡花読書~乱菊、秘妾伝
鏡花には珍しい、時代小説二篇。
『乱菊』(明治二十七年十一月)
外様ながら国力が高い加賀藩は、徳川幕府にとって長年の目の上の瘤となっていた。病と称して江戸への参勤も拒みがちな領主、前田肥前守重教の動向も得体が知れない。重教には隠居の噂があり、そうなると家督を継ぐのは弟の大音の君となる。幕臣松平左京は次代領主に徳川の係累を据えることで不安を払拭しようと、大音の君暗殺を目論んだ。
丈助と秀松という男女の隠密が、刺客として金沢に送り込まれる。
丈助は飛んでくる矢を手でつかむ身体能力の持ち主。秀松は鉄砲の的にされてもいささかも同じない胆力を持った絶世の美女である。武芸好きの前田重教に巧みに取り入った秀松は、乱菊という名を頂き、城中の二の丸奥殿に召し抱えられる。やがて丈助を城内に引き込むことにも成功し、大音の君暗殺の機会をうかがう。
実際のところ、領主の前田肥前守重教は、世の習慣に囚われず、自らを楽しませることを生き甲斐とする男で、幕府への叛心を抱いているわけではない。また大音の君は、当代の光源氏と噂される温厚な美青年である。乱菊は新しい主君に忠誠を尽くし、重教も彼女を重用する。大音の君への接近も果たせるかと思えた矢先、新たな障害が発生する。
奥殿の主である実貞院(重教と大音の君の義母)は、義理の子である大音の君に懸想しており、乱菊を恋敵だとみなしたのである。奥殿の女中たちが総掛かりになった、乱菊への壮絶な虐待がはじまる。……
鏡花としては異例なほど読みやすい文章で書かれた、のちの山田風太郎の忍法帖シリーズに肉薄するほどのエンタメに徹した作品。
史実では、同じ字面の前田重教という金沢城主がいたようだが、暗殺のたくらみがあったわけではなく、ストーリーテリングのための歴史改変がなされたようだ。
娯楽小説だといっても鏡花らしさが薄まるわけではない。上に挙げたあらすじにしても、最初の二段落に書いた物語の前提が明らかになるのはかなり後半になってからで、まず読者の目の前に差し出した事実から、表皮が剥がれるように内実が露見していく、まるで歌舞伎の見顕しのような特徴的な叙述が早くも活用される。幾つもの幕が切って落とされた最奥から姿を現すのは、やはり美女の責め場で、しかも乱菊への虐待には、大音の君の悪夢のなかでの、嫉妬に狂った女たちによる責め殺しが重ねられるという念の入りよう。最後には主命と恋との板挟みになった女の苦しみが、死によって昇華される。
本作における設定、展開、文章の明快さにはやはり尾崎紅葉の添削が大きく働いているようなのだが(残念ながら所有していない、秋山稔『泉鏡花 転成する物語』に詳述されているらしい)、後の諸作でも発揮される鏡花らしい物語構造や語り口は少しも損なわれていないように思われる。鏡花入門にもうってつけな作品だと思われるものの、なぜか青空文庫や各種アンソロジーには収録されていない。
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『秘妾伝』(明治二十八年三月)
賤ヶ岳の戦いで主君柴田勝家の身代わりとなって討ち死にした毛受勝照の妹、小侍従をヒロインに据えた戦国絵巻。
『乱菊』に比べるとこちらはかなり史実に沿っていて、羽柴秀吉、前田利家、堀秀政、堀尾吉晴、奥村永福、加藤清正、佐々成政、お市の方、茶々(淀君)など有名な歴史上の人物が次々に登場する。加賀、越中の領主となる前田利家が、末森城の戦いで佐々成政を撃退するまでの物語を縫って、美女小侍従が超人的な(秀吉に斬りかかるほどの)活躍をする。大河ドラマの原作にでもなりそうである。
題名の『秘妾伝』は、戦功の褒美として小侍従が前田利家の妾になることを望み、「秘せよ、然らざれば人は我を以て色を愛ずるとせん」と答えた利家が彼女を秘妾としたことによる。
これも明治二十七年の金沢帰省中に執筆された作品で、「北國新聞」に連載されていた歴史小説などを読んで、金沢に関わる歴史を勉強し直して書かれたらしい。(これは個人的な感覚としてそう思うのだが)鏡花が手もとに揃えた資料を参照しながら執筆をしたときに特有の凝った文体で書かれていて、『乱菊』よりも格段に読みにくい。
当時は講談や読本で繰り返し語られていた内容なのだろうが、日本史や戦国武将に詳しいわけでもない読者としては、ページをめくるたびにあれこれ検索して、そういえばそうだった、それは知らなかったと確かめながら読まなければならない。
とはいえ、講談調に誇張された武将たちの武勇や女たちの清冽な姿がきちんと描かれた読みごたえのあるドラマになっていて、鏡花が普通の小説を書けなかったわけではなく、あえて人の踏まない道を進んだことがわかる、よく出来た話になっている。
浅井三姉妹の長女であったはずの茶々が、次女のお初と取り違えられているのは、鏡花のミスなのか、当時の史料や通説が間違っていたのか。




