鏡花読書~化銀杏
『化銀杏』(明治二十九年二月)
青空文庫
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鏡花の初期作品のなかでも、比較的、言及される機会が多い作品なのだろう。というのも、
・文語体で書かれた時期のものではあるが、ヒロインの独り語りによる回想が過半を占めるため、実質的には、会話文によるほぼ口語体の作品である。
・いわゆる観念小説から浪曼主義的な作風の過渡的な位置にあり、さらに怪談の要素も含まれる。
・のちに鏡花小説の特徴となる重層的な語りや時制の錯綜が積極的に採用されているとはいえないが、思いつくままに過去を振り返るヒロインの語りに、その萌芽が見られる。
・封建的な結婚制度に対する嫌悪、他人の妻に向けられる好意、愛する対象への異常な執着、あるいは嗜虐、怪談、自殺といった、以後も繰り返し採り上げられる、鏡花らしい要素が顕著である。
……など、初期とそれ以降の作風の両方に触れられる、交差点上にあるかのような作品だからである。
さらには、文章が理解しやすく、ストーリーが明快に読み取れることから、鏡花作品を読んでみたいという人に勧めやすい作品だとも思える。
中期になると、極端なクロースアップや細密描写、流れの途中にあるような状況や会話文など、読者の意表を突く始まりかたをすることが多い鏡花小説にあって、一般的な小説と同じような状況設定ショットから始まる『化銀杏』は、冒頭からして素直な語りを予感させる。
以下、本文をすでに読んだ方、読むつもりの方は、下のあらすじ部分を飛ばしてください。
――――――――あらすじ――――――――
加賀金沢市中、浅野川の河畔一帯の湿地にある古びた二階屋。
地元の学校教師、西岡時彦と妻のお貞が住むこの家の二階には、十六歳の水上芳之助とその祖母が下宿している。ある日のこと、茶の間にいたお貞は帰宅した芳之助を呼び止め、四方山話を始める。
芳之助は、夫に虐待されて死んだ姉の面影をお貞の裡に認め、お貞もまた、実の姉のように親身に接してくれる。いつも優しげな彼女が夫の時彦といさかいを起こしがちなことを、芳之助は不審に思っている。
そんな疑問に対して、お貞は、夫に優しくされることが嫌でたまらないと告白する。というのも……。
もともとお貞は家庭の事情から、裕福な祖父に育てられた娘だった。親代わりの祖父が病気になって、親戚から一方的にあてがわれた十五歳年上の夫が時彦だった。祖父が亡くなった頃、夫婦の間に子どもができた。当時の時彦は東京で学士の資格取得に励んでいたため、夫婦は離れて暮らしていた。好きでも嫌いでもなかった夫から頻繁に送られてくる恋文のような手紙にお貞が困惑しているうちに、病を抱えた時彦が帰郷した。
久しぶりに顔を合わせた夫の、大きな黒縁眼鏡にマスクをかけて、山高帽に髯を蓄えた異様な風体を見て、お貞は笑ってしまった。そんな彼が、妻からの愛情を受け取ることに異常な執着を示すことを知って、お貞は初めて、夫の執念深い性格を意識したのだった。
一家の生計を支えるために、時彦は遠隔地の教師や校長の職に就いた。お貞もまた、夫のたっての望みから赴任地に同行したのだが、決まって体調を崩し、幼子とともに金沢に戻った。しばらくすると辞職した夫が、妻を追って帰郷するといったことが繰り返された。
今では時彦は金沢に腰を据えて、優秀とは言えない学校の教師職に甘んじている。生徒たちからは「チョイトコサ」と渾名をつけられてからかわれている。お貞は、自分への執着から出世ができない夫の、そんな様子が情けなくて、ますます疎んじるようになった。
チョイトコサとは地元で有名な飴売りの物乞いで、いまお貞が芳之助と話している最中にも、玄関先に訪れて祝儀をねだったばかりである。山高帽を被って髯に眼鏡というその姿は、なるほど、お貞が夫と見間違えるほどに時彦とそっくりである。
夫婦の子どももまた、母親と同じように時彦を嫌い続けていたが、五、六歳になった頃、ジフテリアにかかって亡くなった。
その後も時彦は、心に壁を作ったお貞とは真逆に、仕事が終わればどこにも寄り道をせずに帰宅して、妻のことばかり気にかけている。お貞は、いったん結婚すれば妻は夫のものになるという世の習いに疑問を抱きながらも、たった一人で世間の常識には勝てないという諦めから、夫に尽くす妻という体裁を捨てることができない。
そんなお貞にとって、若く自由な見識を持つ芳之助は心の支えであり、死んだ我が子の姿を重ねる対象でもあった。
お貞の告白を聞いた芳之助は、世間から貞女と言われながらも、内心では夫を軽んじている彼女を、陰弁慶だと笑い飛ばす。芳之助にあしらわれたお貞は、さらに自分の胸の内深くを彼に打ち明けた。
お貞は今や、夫に接するたびに「死ねばいい」と考えている。そんな自分の罪深さを自覚して恐ろしくなり、その反動から夫に従うことになる。近ごろ、夫の体が弱っていくに従って、自分の念が届いているのではないかという恐怖を感じて、ますます夫に尽くすのだが、そのたびに「死ねばいい」という考えが強くなっていく。そんな堂々めぐりの苦しみを打ち明けられて、思わず芳之助が同情を示したそのとき、時彦が帰宅した。
帰るなり、気分が悪いと床を取った時彦は、そのまま肺病を進行させて、一時は危篤の容体に陥った。お貞は、例の堂々めぐりの恐怖から、身を粉にして夫の看病に明け暮れた。
そんなある日、時彦は枕もとのお貞に、お前の心はすべて見通しているのだと語りはじめる。どうせ自分が死んだら自由の身になって芳之助と楽しく暮らすつもりだろうから、自分の死を祈るのは殺すよりも残酷だ。そこまでの好き勝手は、夫として許せない。だからいっそのことお前をここで離縁する。もし自分の死後、お前が芳之助と結ばれたら、瀕死の夫を見捨てて若い男と逃げた淫婦として世間の非難を浴びるだろう。それが嫌なら、今すぐ俺を殺して法の裁きを受けろ、と。
時彦のことばに追い詰められたお貞は、包丁で夫を殺害した。法廷では精神錯乱だと判断され、刑罰を免れた。放免後は旅館を営む伯父の家に引き取られ、片隅にある暗い部屋に籠もって暮らしている。
彼女は深夜、旅館の廊下を徘徊し、罪深い顔を見られたくないという強迫観念から、客室の行燈の明かりを消し歩いている。銀杏返に結った影が目撃されることから、この宿は化銀杏の旅店だと噂されている。
そんなお貞の姿を見たとしても、芳之助は亡き姉に重ねることはないだろう。
――――――――――――――――――――
江戸時代の末期から明治時代にかけての女性の代表的な髪型には、島田髷、銀杏返、丸髷の三種がある。島田髷は未婚者の髪型、丸髷は既婚者の髪型、銀杏返は年齢を問わない髪型で、それぞれにヴァリエーションが多い。
作中のお貞は丸髷を結っていて、「化銀杏」となってからは、その名のとおり銀杏返を結っているのだから、題名そのものに女の社会的立場の変転が込められている。
また、彼女の夫、西岡時彦の渾名である「チョイトコサ」は、作中にチョイトコサ本人が登場するから説明の必要もないのだが、鏡花の創作ではなく実在の人物だったようだ。
ネットで閲覧できる「市史年表 金沢の百年」というページに、「明治三十五年(1902)4月11日、笹下町居住の奇人『チョイトコサ』死去。ビンツケ売りの『栄マ』とともに当時金沢市中の名物男だった。」とある。東京のキャンディキャンディおじさんや新宿タイガーさんのような、地元の誰もが知る特異な扮装の有名人だったのだろう。
こうしてあらすじを書いてみると、人物の心中を事物や行動の描写に託すことが多い鏡花作品にあって、『化銀杏』は異例なほど、ヒロインの異常心理に深く立ち入った作品だと実感できる。と同時に、お貞の述懐や筆者による叙述を通して伝えられる時彦の異常さは、妻のそれに輪をかけて際だっている。
異常な性質を持つ人間同士がのっぴきならない関係を持つことで、さらにお互いの異常さを高めあいながら極端を極めるといった展開は、観念小説と呼ばれるにふさわしい鏡花作品(『夜行巡査』『外科室』『琵琶伝』『鐘声夜半録』『海城発電』)すべてに共通する特徴であって、同時にすべてが悲惨小説と呼ばれるに適した激烈な悲劇性を備えている。
のちに書かれる多くの作品においても、作中人物の悲劇的な立場はけっして劣ることはないのだが、悲惨の事実そのものよりも物語的に昇華した印象が勝って、生にも死にも美しさを伴う。ところが観念小説の作中人物たちは、華麗な修辞にも彩られず、能楽や説話の様式にも援用されず、逆転的な結末にも助けられずに、直線的な語りによって悲惨な結末に放り出されるだけである。
本作の場合は、時彦からお貞へ、お貞から芳之助へと向けられる愛情の執着が、芳之助からお貞に向けられることはないとする末文によっても、冷酷な印象がつけ加えられることになる。
もしも円熟期の鏡花が同じ話を書いたとすれば、「化銀杏」の怪談を作品の半ばに据えて、前半は怪異と遭遇するまでの主観人物の見聞録、後半は悲劇的なヒロインが怪異を起こすに至るまでの事情が一気に解き明かされるといった、夢幻能的な構成を採ることだろう。
ヒロインを悲惨に追いこむのは鏡花の嗜虐趣味なのだが、鏡花にとって小説の工夫とは、ヒロインへの加虐に対する贖罪でもあったのかもしれない。
語りによって、構成によって、修辞によって、暗示によって、悲惨は神話的物語に転じ、ヒロインは永遠の生を得た女神にも転生するのだから。




