鏡花読書~旅僧、ねむり看守、八万六千四百回
仏僧として、看守として、時計として、それでいいのかという気もしてしまう、初期の三篇。
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『旅僧』(一人坊主)(明治二十八年四月)
平易なジュブナイル作品。
福井県の敦賀港から石川県の金石港に向かう船中、一人の法華僧が乗客たちのやり玉に挙げられる。船旅の一人坊主は縁起が悪いという迷信から、海が荒れるのはこの僧のせいだと、人々の不満が集中したのである。それを聞いた僧は、平然と我が身を海に投じる。
やがて助けられた僧は、さぞ徳のある人に違いないと、手のひらを返した乗客たちの尊敬を集める。「人を恃むより神仏を信ずるより、自分を信仰なさるのが一番じゃ」と僧は教訓を与える。仏僧としてそれでいいのかという気もするのだけれど……。
『梟物語』と同じく、ここでも背景に浄土真宗と日蓮宗の対立が描かれ、日蓮宗が優位を示す。
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『ねむり看守』(明治二十八年八月)
囚人たちの労働を監視する看守が、囚人たちに語り聞かせる訓話。
悲惨きわまりない境遇の徒刑囚の話をして、自分がいつも居眠りをしているのは、このようにやむを得ず犯罪者となった哀れな人間に温情を与えるためだと説く。これもまた、看守としてそれでいいのか、という気もするのだが、この物語のなかでは、なぜかその話が囚人たちを感化する。
文語体の小説だが、看守の語りがほとんどを占めるので、口語文の練習をしたのだとも思える。
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『八万六千四百回』(明治二十八年八月)
ジュブナイルのファンタジー作品。
舞台は、柱時計の各部品を擬人化した「時計局」なるもので、一日八万六千四百回往復を繰り返す振り子が、いつ終わるともしれない労働を嘆いてストライキを起こす。時計局の局長である文字盤は、千里の道の一歩だけを考えれば楽に仕事ができるといった論法で、振り子を諭す。
紅葉の勧めで、寓話の執筆を試したのかもしれない。この世を管理社会だとみなす社会の見かたの、明治時代らしい初々しさが、読んでいてちょっとくすぐったい。




