鏡花読書~振り返り……黒猫
鏡花全集もいよいよ巻二まで読み進めてきた……なんて言っても、何がいよいよなのか、説明しなければわからない。
鏡花全集を読もう、と思い立った当初は、面白そうな作品をつまみ食いして読んでいた。
なぜ「面白そう」と判断できる基準があったのかといえば、’90年代に刊行された国書刊行会の「鏡花コレクション」や、ちくま文庫の「泉鏡花集成」を、書店に並ぶたびに片っ端から読んでいたからで、けれども時間をかけずに流し読みをしただけで、わからなければそのまま読み飛ばすという読み方だった。当然、内容もほとんど忘れてしまって、なんとなく引っかかった一節や、あの作品は面白かったという印象しか残らなかった。
普段読んでいるものとは異質の読みにくさのせいで、話の内容すらぼんやりとしか理解できないままで読み終えた結果、目覚めた直後は覚えていた夢の内容が思い出せなくなるように、具体的にどんなものだったのかという実体が記憶からこぼれてしまったのだった。
その後、近所の古本屋で、岩波の鏡花全集が一万円二千円だったかで売られているのを見つけて、思わず買ってしまった。これが手もとにあれば理解が進むのではないかという、根拠のない期待からである。三十巻を二回に分けて持ち帰ろうかと悩んでいると、店主のおばさんが、車で配達しますよ、と言ってくれた。
閉店後に届けてくれた玄関先で、
「なぜこんなに安くしてるんですか。なんだか申し訳ない」
と礼につけ足して言うと、
「いえ、うちは市場から卸さずに全部買い取りでやってますから」
「ええっ、よく買い取りだけで在庫を揃えられますね」
「このへんはいいお客さんが多いから」
「私もしばらく古本屋で働いてた頃があったんだけど、なかなかそうはいかないもんですよね」
「あら、どちらのお店ですか」
などと、しばらく立ち話をしたことを覚えている。
その古本屋はしばらくすると店を閉じて、同じ場所に別の古本屋が開業した。ずいぶん経ってから、娘がその店でアルバイトを始めたのでびっくりしたのだが……。前の店のおばさんはどうしたのか知ってる? と娘に聞いたところ、癌で亡くなったのだという。
せっかく買った鏡花全集はというと、ぱらぱらとめくって、面白そうな題名の未読の短篇をつまみ読みしたっきり。
覚えているものでいえば、『X蟷螂鰒鉄道』は、ふーん、こんなものかと特に感慨も残らなかったのだし、先日この日記でも採り上げた『星あかり』は、何を言いたいのかさっぱりわからなかった。こんなものを面白いと思える日が来るのだろうか、なんとも荷の重いものを買ってしまったと、なかば後悔していた。
そんな、書棚を占拠する厄介者になりかけていた鏡花全集が、今ではどこを読んでも有難いと思えるようになっている。亡くなった本屋さんのこともたまに思い出しながら、あの巻、この巻、毎日取っ替え引っ替えして机の上で広げているわけで、人の命も本の命もわからないものです。
さて、全作品を読もうと思ってからは、まずは巻一から巻二十四までの小説の部から手をつけることにしたのだが、巻一の古い作品から順に読んでいくとなると、かつての記憶でそれほど楽しめなかった習作のような作品ばかり読まなければならなくなる。
どうも飽きてしまいそうな気がして、とりあえずは絶頂期だと思える明治後期から大正初期のものから先に読んでしまうことにした。作品で言えば、『春昼』から『日本橋』あたり。
全巻の半ばにあたる絶頂期パートを読み終わって、巻十一から巻一にさかのぼる逆順に読みはじめた頃から、備忘の意味でこの日記に「鏡花読書」と題したメモを書きはじめたというわけです。もうすぐ巻一にまで遡るから、それが終われば今度は巻十七から巻二十四の未読・要再読作品を執筆順にたどっていき、〆として『風流線』と『山海評判記』を再読しようかなと、現時点では思っている。
備忘メモのつもりで書きはじめた鏡花読書も、だんだんと長ったらしくなる一方で、日記と題して書き始めたものが、まさかこんなに鏡花、鏡花で埋まるとは思ってもいなかった。こんなことなら鏡花読書を別立てにしておけばよかったと、今では後悔している。
と、前置きをした上で……
〇
『黒猫』(明治二十八年七月)
何よりも楽しみのための読書なので、初めてストーリーを知る悦びや驚きを優先したいと思っているから、事前にあらすじや作品論の類いは読まないようにしている。とくに学校で文学の研究をしたとか、概論を学んだなどの経験もないので、予備知識がほとんどないことも、自分のような読者には幸いなのかもしれない。
題名からして本作は、ミステリーなのか怪談なのかと、期待しながら読み進めたのだが、途中で変な気持ちになった。最近は集中的に鏡花小説を読んでいるせいで、各作品のストーリーの記憶と、鏡花作品全体に散らばる要素が蓄積した領域が頭のなかに出来上がっている。本作の読書中に意識が後者の領域に迷い込んで、いま自分がストーリーを考えながら文章を作っているような感覚に囚われてしまった。
次はこんな文章だろうと思ったことが、なぜ文字になってページに印刷されているのだろう?
数十秒後にあっけなくそのわけがわかった。
いま自分が読んでいる『黒猫』の十三章から十七章あたりは、六日ほど前に読んだ『なゝもと桜』の二十七章から三十二章あたりとほぼ同じ文章から成っていたのである。ただし前後の登場人物も筋立ても異なっている上に、『黒猫』は文語体、『なゝもと桜』は口語体で書かれているから、同じ内容の繰り返しだと、とっさに気づけなかった。『なゝもと桜』は『黒猫』のプロットの大枠を再利用し、口語体に書き換えた一部をまるごと流用した、大幅なリライト作品ともいえる作品なのだった。
そういうことかと納得して、少し振り返りながら読み進めていると、なぜだかそのまま『なゝもと桜』のストーリーが続いていく。あっ、いつの間にか確認のために開いていた『なゝもと桜』を『黒猫』のつもりで読み続けているではないですか。ボケ倒しである。
『黒猫』は地方紙「北国新聞」に連載されたまま単行本化もされず、(昭和三年、雑誌に復刻掲載されたことがあると全集解題に書かれてはいるが)鏡花生前に出版された春陽堂版全集にも収録されなかった作品である。連載一回半ほどの欠落部分が補えていないのだから、原稿を返却してもらえなかったのか、あるいは紛失したのか。同じ話を書き直して東京の出版社に売り込むという選択肢もあったのかもしれないが、結局は全体に変更を加えて『なゝもと桜』という新作に仕上げ直してている。
いまさら中央の文壇に発表するにしては、『黒猫』は通俗すぎると判断したのかもしれない。『黒猫』から『なゝもと桜』までの二年半ほどのあいだに、旧作があきらかに稚拙に思えるほど、鏡花の小説技巧は加速的に進化していた。
通俗読み物としては水準以上に楽しめる作品ではあるし、登場人物に鏡花小説の原型となるようなキャラクターが揃っているという価値もある。とはいえ、前後に並ぶ秀作と比べれば、凡作と言わざるをえない。鏡花はE・A・ポオの『黒猫』の翻訳を読んでいた可能性が高いそうで、終盤のつけ足しめいた展開はたしかにポオ作品の一部をなぞっているふうでもあるが、だとしても表層的な借用でしかない。
長い前置きが必要だったわりには、この感想も凡庸になってしまった。




