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こりすま日記  作者: らいどん


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鏡花読書~なゝもと桜

『なゝもと桜』(明治三十年十一月)



――――――――あらすじ――――――――


 農家の一人息子で小学校にも行かなかった岸田資吉(すけきち)は、二十三歳にして高等学校で学ぼうと一念発起する。まずは大久保の私塾に通いはじめた。

 そこで数学の魅力に取り憑かれた彼は、自分なりの理解にたどり着くまで考えこむ執念深さを発揮して、独力で二次方程式の解法を発見するに至った。研究成果を雑誌に送ったのだが、そんなものは西洋で大昔に見つけられたものだと無視される。その頃に亡くした父親の遺産は、叔父に横領される。さらには不治の病であった肺病を患って、教師の職も失ってしまう。

 一時の危篤状態を脱して抜け殻のように生きる資吉の唯一の楽しみは、以前の生徒だった清子の家、清川家に入り浸ることだった。

 清子は才色兼備で周囲の注目を浴びる少女である。父親を亡くし、大塚の邸で母と女中との女三人で暮らしている。ふとしたきっかけで家に上がりこむと、その後も幽霊のように毎日訪ねてくる先生を追い返えそうにも追い返えせないでいる。


 さて、清川家に出入りする髪結いのお(きん)は、裕福な家に生まれたものの、生来のお(きゃん)な性質のために流転の人生を送っている粋な姉御である。これまで男を手玉に取ってきた自惚れから、清子を乗せた車夫の信之介にちょっかいを出す。ついつい真剣に入れこんで身の回りの世話を焼く間柄になるのだが、情人になることを拒まれて、縁を切る決意をする。きまじめで、なにやら志をもっていそうな信之介に清子お嬢様が好感を持ったという話を聞いて、お欽は嫉妬する。


 そのころ清川家では、我慢の限界を超えた資吉が清子の手を取って、一方的に思いを告げるという事件が発生した。それまでは存在感がなさすぎて追い払いにくい客人でしかなかった資吉は、一転して執念深いストーカー扱いされるようになる。

 その話を聞いたお欽は一計を案じて、故人である清子の父親の許しを得られれば清子を嫁に差し出すと、無理難題を押しつけて断ればいいと進言する。

 ところが、融通の利かない頑固者の資吉は、清子の父親の墓所の前で、返事を聞くまでは一歩も動かないと断食の荒行をはじめた。

 折も折、山の手は烈しい雷をともなう豪雨に見舞われ、清川家も雷光に照らされる。子どもの頃に悪夢の中で見た七本の桜の風景が父の墓所のものであったと思い至った清子はしだいに精神を錯乱させ、信之介に嫁入りするのだとうわごとのように口走る。


 断食を続ける資吉のもとに駆けつけたお欽は、自分の嫉妬心から話をこじらせるような助言をして皆を苦しませるようなことになったと詫びる。清子が信之介と結ばれることを許してもらえるなら、私は一生あなたの面倒を見ると嘆願するのだが、資吉はもはや、なんの表情も浮かべてはいなかった。


――――――――――――――――――――



 いきなりあらすじを書いたのは、内容を知ってほしいというよりも、よくわからない話だという事を前置きしたかったから。

 数年後の鏡花の手にかかれば読みごたえのある悲劇に仕上がったかもしれない話なのだが、各登場人物の人物像は鮮明でも、行動の動機がほとんど描かれていないことに不足が感じられて、すべての事件が唐突に発生し、よくわからないまま唐突に終わる。こんな中途半端な話が、かなりの分量をもつ中編小説として描かれているのだから、労に見合わない読書である。

 おそらく鏡花としては、読み物としての筋を通すことよりも、言文一致体による新しい語りを手に入れるための、やらなければならない実験だったのだろう。


 さて、当時まだ始まったばかりだった言文一致運動の流れに沿って、文壇の動きをごく簡単にまとめてみると、以下のようになる。


 1884(明治17)年 三遊亭圓朝『怪談牡丹燈籠』(速記本)

 1886(明治19)年 物集高見(もずめたかみ)『言文一致』


 1886(明治19)年 山田美妙『嘲戒小説天狗』………「~です」体

 1887(明治20)年 二葉亭四迷『浮雲』………………「~だ」体

 1896(明治29)年 尾崎紅葉『多情多恨』……………「~である」体


 1897(明治30)年 泉鏡花『化鳥』『なゝもと桜』

 1905(明治38)年 夏目漱石『吾輩は猫である』


 今から思えば、言文一致なんて話してるとおりに書けばいいんだから簡単じゃん、と感じられるのだけれど、そうは言っても普段から小説の文体のように発言をしている人なんていない。逆に日常会話をそのまま採録しても、だらだらして要旨をつかみにくい文面になってしまう。

 言文一致とはじつは言文の一致を目指したわけではなく、言と文のはなはだしい解離を取り除きながら、効率よく現代を語るのに適した、話し言葉とも違う日本語の新しい表現を一から組み立てる作業だったわけで、使われる語彙や語られる内容、思考の方法までを見直さなければならない一大事業だった。


 山田美妙は「~だ」体と「~です」体の間で揺れていたらしく、『嘲戒小説天狗』という小説は読んだことがないので「~です」体の例として挙げていいのかわからないまま、最初期の言文一致小説だと言われていることを鵜呑みにして仮に並べてみたのだが、ほぼ同時期に書きはじめられたらしい二葉亭作品と山田美妙の他の言文一致小説を読み比べると、語尾だけの工夫だとも感じられる山田作品に対して、語彙や主題にまで神経をめぐらせた口語体による描写を確立させたという点で、やはり一般常識どおり『浮雲』が言文一致体のはじまりといえるのだろう。

 けれども、三遊亭圓朝の速記本の文体をもとにしたのだという『浮雲』の口語文には独特の不明瞭感があって、どこか舌足らずに感じられる。それに対して尾崎紅葉の『多情多恨』は、主述が明確な欧文脈の論理的一貫性を完璧に備えていて、現在の小説とほぼ同じように味読が可能だ(このあたりの分析は馬場美佳の著書『「小説家」登場 尾崎紅葉の明治二〇年代』で詳しくなされている)。


 言文一致体の完成者は尾崎紅葉だった、と言われてもいいほどの功績だと思うのだが、なぜ功労者として名を挙げられることがないのか。

 というのも、二葉亭四迷や山田美妙は言文一致運動の一環として文体を模索したのだが、尾崎紅葉はさまざまなジャンルの小説をこなすなかで、心理小説を書くのにふさわしい文体として言文一致体を採用して、独自の「である」体として工夫を凝らしただけだった。翌年から連載を開始した『金色夜叉』ではふたたび文語体の雅文に戻っている。日本語変革の大運動ですら自作のための工夫に利用しただけで、言文一致運動の流れのなかにいたわけではなかった。それでいて、言文一致体の「正解」ともいえるものにたどり着いていた。

『金色夜叉』の大ヒットが、今となっては不幸なことに重要な業績をかすませてしまったのだけれど、やろうと思えば誰よりも完璧に、日本語のどんなフォーマットも使いこなす天才文学者だったことは間違いない。


 そんな師の天才ぶりが発揮された作品『多情多恨』をお手本にした鏡花が、半年ほど前に試験的に取り組んでみた『化鳥』の独白体の口語文を発展させ、本格的な小説を叙述できるのかという実験に挑んだのが『なゝもと桜』という小説だった。

 あえてそのあたりに注目してみれば、『なゝもと桜』はかなり面白い。

 数学者岸田資吉、髪結いの篠原お欽をメインに、令嬢清子とその母、車夫の信之助、通りすがりの若者、資吉の学友の関堂寺探了、女中の初、そして語り手といったさまざまな視点から語られる物語は、口語文を滑らかに使いこなしながら、視点の主体に合わせて――まるでライトモティーフを切り替えるように――微妙な変化を見せる。

 とりわけ特徴的なのは、岸田資吉を語るさいに使われるユーモラスな文体である。論理ぶったナンセンスな戯文でからかったり、希にです・ます体を混ぜて剽軽なタッチを添えたりと、鏡花にしては破格の軽い筆致が前半に集中している。

 けれども鏡花にとっての文体はあくまでも「調子」であって「主旋律」を装飾するものでしかなかった。文章で直接的にストーリーを語ることや、人物の内面に立ち入ることはできる限り避けたいという厄介な美意識が、この時点からすでに行使されて、作品を読みにくくしている。結果として『なゝもと桜』は、平明な口語文でことばを尽くしてもなかなか筋が進まず、人物の相互関係を描けていないという欠点が鮮明になる、行き止まりだらけの迷路に迷いこんでいる。


 言文一致体を使いこなせる技量を見せながらも、小説として成功したとはいえない『なゝもと桜』の叙述を改良するためには、語り手に神の権限を与えることで描写を軽量化し、さらには登場人物の内面を自由に覗かせることで読者の感情移入を促すといった、語り手に「主旋律」を担わせてしまうのが最も手っ取り早いのだろう。

 しかし鏡花は、誰もが気づいたはずのそんな近道を選ばなかった。その後も外皮的な描写によるイメージの取り合わせでストーリー展開を朧気(おぼろげ)に浮かびあがらせる独自の小説作法に執着し続けて、それを徹底させるために語りを重層化し、それどころか口語文そのものを魔改造し続けるという、とんでもない我流を貫く方向へと舵を切っていった。

 人目の多い通りを避けて常に裏道を歩き、無学の身で1+1を納得することから独自論理を積み上げて二次方程式の解法に到達した本作の主人公、岸田資吉という偏屈者の数学者には、そんな、同じく偏屈きわまりない、けれどもその偏屈さを独自の美学にまで磨き上げることになる、鏡花の自画像が反映されているのかもしれない。


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