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こりすま日記  作者: らいどん


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鏡花読書~星あかり、鴬花径

 鏡花がいかに先鋭的な作家であったか。現在の、ジャンル化してすっかり先鋭化したサイコ・サスペンスや叙述トリックを駆使したミステリーの書き手に引けを取らないセンスを持ちあわせていたか。

 鏡花の小説を、そんな、あたかも「新青年」の戦前のバックナンバーを漁って失われた探偵作家を探すような視点で読むような人もめったにいないとは思うのだけれど、『辰巳巷談』や『三尺角』などの有名作品の間にひっそりと埋もれていたかのような『星あかり』と『鴬花径(おうかけい)』という二作品から受けた衝撃のおかげで、考えはとめどなく、これまでの鏡花作品に対する定型的な感想を外れていくのだった。


 ――などと、つい取り乱してしまったのだけれど、それほど驚いている。ここまで(全小説の三分の二近くまで)鏡花小説を読んできても、鏡花という人はもう少しばかり、古いタイプの文学に足を引っぱられた人だと思い込んでいた。



『星あかり』(別題:みだれ橋)(明治三十一年)


 雑誌初出時のタイトル『みだれ橋』とは、現在の鎌倉市材木座にあった橋(今は跡地)のことで、舞台になった妙長寺も実在の寺院。

 鏡花は明治二十四年七・八月の二ヶ月間、乱橋のすぐ近くにある妙長寺に、知り合いの医学生と共に滞在していた。


▶巷に迷ひ、下宿を追われ、半蔵に居を移すこと十三四次。盛夏鎌倉にさすらひし事あり、彼処も今は都となりぬ。◀(自筆年譜)


 と後に述懐することになる、尾崎紅葉に弟子入りするため、前年の十一月二十八日に故郷金沢を飛び出したものの、師の門を叩く勇気を出せずに東京を放浪しながら最底辺の生活を送っていた頃のことで、当時の苦境は『売色鴨南蛮』(大9)に活写されている。

 本作で描かれているのは『売色鴨南蛮』の作中の時期よりも少し後のこと――つまり十月十九日に紅葉の門を叩く少し前にあたる。


『売色鴨南蛮』に描かれた内容からしても、自筆年譜に記されている、貧窮ぶりを見かねた従姉から送られた五円(公務員の給与換算で今の十万円ほどか)の為替券を癇癪をおこして破り捨てたなどというとんでもない逸話からしても、この頃の鏡花は精神的に危険な状態に陥っていたようで、時間を隔てることで余裕をもって書かれたであろう、技巧的に狂気を描いた『売色鴨南蛮』に対して、わりと直近に経験した精神的な危機をなまなましく反映しているのが『星あかり』ということになる。


 どういう人物なのかがいっさいわからない語り手が、どんな事情があるのか説明されないまま深夜の鎌倉の海岸を徘徊するのだが、宿泊先らしき妙長寺の一間に戻ってみると、自分のドッペルゲンガーが蚊帳のなかで寝ていたという、ただそれだけの短編。

 伝記的な読み方をすれば説明不足でもの足りない作品だろうけれど、意図的に説明を取りはらった抽象性を目指したものだと考えれば、のちの『売色鴨南蛮』よりもずっと、冷たい刃物のような狂気を感じさせる。





鴬花径(おうかけい)』(明治三十一年)


 朦朧とした文体を掻き分けるような読書を克服できたらという条件が付くとはいえ、すばらしい出来栄えの作品であり、かなりショッキングな内容でもある。


『化鳥』(明30)と同じく、一人称の少年の内面が綴られるのだが、ただし幼少時を回想する、大人になった「私」の視点がわずかに介在している。

「春の小道」とでも言い換えられるのだろう題名そのままに、病床にあった母親と幼い自分が、自宅の窓辺から金沢市中の火災を美しい夜景として眺めたという甘い回想から物語は始まるのだけれど……。

 一変、記憶は分断。

 現実の鏡花の実家から一キロメートルほど北東にある、卯辰山寺院群あたりに向かって、見知らぬ女に手を引かれながら、今まさに誘拐されているのだという、悪夢のような現状に意識が引き戻される。

 行き着いた夜の寺院の階段には、若い男が待っていた。そしてその寺は「私」の遊び友だちが、気の狂った父親に斬殺された場所なのだった。


 初期作品にありがちな母恋ものだと思って読んでいた幼い一人称の物語が、突然の血と狂気の影に覆われる瞬間のショックはなかなかのものなのだけれど、事実はそれどころではなかった。謎の男女の会話から、友だちの父親だと思っていた狂人は「私」の父親であり、友だちは「私」の身代わりになって殺されたことがわかってくる。しかも、母親を失って錯乱した「私」自身の狂気が、父親の精神を子殺しにいたるまで追い詰めたらしい。……


 トリッキーな小説の、大変なネタバレをしてしまったようだけれど心配は無用。その後も物語は二転、三転、まるで鏡花版『ドグラマグラ』なのではないかと思える精神の迷宮から抜け出して、みごとな、しかし痛切な終幕を迎える。

 いや、『ドグラマグラ』というよりも、むしろ、夢みるような幼女の一人称独白がしだいに狂気や残虐を帯びていく、シャーリィ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』のような読後感である。


『星あかり』と『鴬花径』を読む限り(のちに書かれる『楊柳歌』を加えてもいいのだけれど)、鏡花は数十年後に人気を博すような、サイコ・サスペンス的なストーリー・テリングを先取りできる資質を充分に備えていたかのように思える。そんな、ありえたかもしれない方向性が閉ざされたのは、鏡花といえども時代に育てられた作家であって、小説というものにそれを語る作家自身を想像してやまなかった、それこそが文学だと信じていた当時の読者や批評家が、ショックによる記憶の改竄などという斬新なアイディアを取り入れた純然たるフィクションに追いつけなかったせいにすぎないのではないか。


 世間から古いタイプの作家だと思われた鏡花を古めかしさに追いやったのもやはり世間だったという反作用のようなものも、感じていかなければならない気がしている。



 全集以外にも『星あかり』は「新編 泉鏡花集」の五巻に、『鴬花径』は一巻に収められている。全集を読んで、これは、と思える、あまり読まれていない作品のかなりの割合が「新編」に収録されているのだから、やはり考え抜かれたセレクションなのだと思う。


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