鏡花読書~海の鳴る時、湯女の魂
『海の鳴る時』(明治三十三年)
金沢の中心地から直線距離で南西二十キロメートルほどにある温泉地、辰口温泉には、鏡花の叔母・千代(母すずの兄である中田孫惣(明治十年没)の妻)が芸者置屋を営み、芸者になったその娘たち――鏡花にとっては従姉にあたる――ふみ、かねとともに暮らしていた。
『海の鳴る時』は、鏡花自身を思わせる語り手が「叔母の家に急用があって」、金沢から辰口へと俥や徒歩で向かう小旅行記といった体裁ではじまる。
これが記録文なら、いったいいつの話なのか、急用とはいったいなんだったのか、気になるというものだが、ページを二、三枚めくるうちに、文章はフィクションの色合いを濃くしていく。
吹雪に難渋しつつ手取川を渡って、辰口のつい手前まで来た語り手は、叔母を訪れるたびに立ち寄っている馴染みの茶屋で休息をする。
そこに、息絶え絶えの女が、車屋に抱きかかえられ、客人の男に付き添われて担ぎこまれてくる。以降、威勢のいい車屋と、その父である茶屋の主人とのかけあいによって語られる、語り手を傍観者に退けた別の物語が開かれていく。
――――――――以後のあらすじ――――――――
……もともとは身分の高い家柄の娘であったらしきお絹というその湯女(温泉芸者)は、実家の零落とともに身を売られたのか、かつての使用人であった按摩のもとに預けられている。
醜悪な面相のその按摩は、お絹に買春を強要しながらいたぶり続けていて、昨晩も彼女は、ここに付き添ってきた客人の相手をしろと責め立てられたらしい。
じつはお絹には言い交わした男があって、このままでは操を守りきれないと、死ぬ覚悟で吹雪のなかへ飛び出した。宿を発った客人を乗せた車屋が、行き倒れになった彼女に気づいて、ここまで運んで来たという。
偶然にも客人はお絹の思い人の親友で、彼も私も今は学生の身であるが、いつかきっと彼女のことを助けると誓う。囲炉裏の火で体を温められていたお絹は、ようやく気を取り戻した。
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鏡花にしては異例なほど平明な文章で綴られた、短いながらも真情のこもった短編。
現実での辰口温泉の伯父にしても、維新前は藩主お抱えの能楽師の子だったわけで、その夫を亡くした叔母の苦境や、さらには芸者になった娘たちの過酷な運命が、薄幸のヒロインに重ねられているのかもしれない。
本篇に解説やエッセイを付した種村季弘の『泉鏡花「海の鳴る時」の宿―晴浴雨浴日記・辰口温泉篇』という瀟洒な冊子が、辰口温泉の旅館まつさきの自費出版本として売られていたことで、ちょっぴり有名な作品でもある。
〇
『湯女の魂』(明治三十三年)
青空文庫
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それなりに長い短編で、内容をまったく知らずに読んだのだが、これまで読んできた鏡花小説の文章とはかなり肌合いの異なる文章に驚かされる。終始くだけた話し言葉で語られて、まるで講談本か、三遊亭圓朝の速記本を読むかのよう。
それもそのはず、本篇は、川上眉山宅で催された硯友社の第二回新作講談会という集まりで、鏡花が口演したものの速記に基づいて、さらに手を加えて改稿の上、発表されたものなのだそうだ。
日本語の口語文の成立には、三遊亭圓朝の速記本の人気の後押しもあったというから、文語文からの転換期には、鏡花といえどもいろんな試みに挑戦していたんだな。
さて、本作の内容はというと、前作の『海の鳴る時』を語り直したものです。
ただし舞台は富山の小川温泉に変更され、講談らしい尾ひれはひれがたっぷりつけ足されている。
前作での悪役の色按摩は、着物も顔も手足も蒼然だという、まるで『オズの魔法使い』の西の悪い魔女のような怪女に置き換えられて、大きなコウモリに化身して女の魂を吸ったりと、ドラキュラ伯爵のような挙動を見せる。
悪役が年増の女で、いつもの妖婆ではないのは、飛縁魔という、美女の姿をした妖怪を元にしたからなのかもしれない。
語り口も軽快で、当時の人気風俗がさかんに喩えとして挙げられるのだし、話の途中では「春葉君だと……誠に好い都合でありますけれども、私の地声では、些も情が写りますまい」などと、同門の柳川春葉を引き合いに出す楽屋オチが挿入されていたりもする。
『海の鳴る時』では、お絹は相手の男と深く言い交わしているように思えるのだが、『湯女の魂』ではヒロインの思慕は一方的で、相手の男はただの風俗嬢としか思っていないようだし、女を助けようとする客人の男もいささかノリが軽い。いつもの鏡花とは逆に、話を軽く、通俗的にする工夫が随所に見られる。
……そんな鏡花らしくなさは、やはり鏡花小説に鏡花らしい面白さを添えるものではない。だからこそ、読みやすくはあるのだけれど。




