鏡花読書~三枚続、式部小路
『三枚続』(明治三十三年)
『式部小路』(明治三十九年)
青空文庫
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ずっと以前にちくま文庫の泉鏡花集成で読んで歯が立たなかった二篇。これだけ鏡花作品を読み続けた甲斐があって、なんとか楽しみながら再読できた。
『南地心中』と同様にあまり読まれてはいないのだけれど、鏡花が自身の小説の方法論を模索し、突き詰めた意欲作として、これもまた個人的には重要作品の一つとして記憶しておきたい、と思う。
『三枚続』と『式部小路』は続きものの物語で、合わて全集で330ページ近いから、短めの長編といってもいい。ただし(執筆年が六年も隔たっていることからもうかがえるのだが)続編の『式部小路』には『三枚続』の設定を再活用したとも思える、独立した悲劇世界が構成されていて、単純にひとまとまりの小説とはみなしにくい。
物語的にはつながっている二篇の内容をあえて要約すれば、どうしようもない酒飲みのクズ男、床屋の愛吉と、どれほどの汚濁にまみれようと気高く純真無垢なお嬢様、お夏の、常識を越えた愛の物語である。
鏡花小説に登場する数え切れないほどの女たちのなかにあって、お夏は最強のヒロインではないだろうか。
豪商の家で甘やかされて育った彼女は、火事のために一家離散、細路地で営む絵草紙屋もまたもや火災に見舞われて、放浪の末に屑屋になって孤独死しかけるのだが、初恋の相手である山の井医師に拾われて、金持ちのめかけのような身分になっても、じゃれついているだけで、肉体関係を結んでいる気配もない。
火事で焼け出されても愛玩する鶏や雛人形のことばかり心配したりと、随所で描かれる幼児性には強烈な愛らしさがあるのだが、山の井医師にもらった香水を手にしながら、
▶私に此の匂をさして、抱こうと思ったって、然うはいかない。◀(『式部小路』三十五)
などと吐いたりと、伝法な姉御肌も垣間見せる。木場のお嬢様なので、辰巳芸者の気っ風も帯びているというわけだ。
鏡花的ヒロインの三要素、侠気、可憐、崇高のすべてを、これほど鮮烈に備えたキャラクターは、鏡花小説数多しといえどもなかなかいない。後の長編、『芍薬の歌』や『由縁の女』には、侠気、可憐、崇高を分担したそれぞれ三人のヒロインが登場するのだけれど、彼女らの全気質を一身に集めたかのような美女なのである。
一方の愛吉は、腕のいい床屋の渡り職人ながらも、行く先々で暴力沙汰を起こして火の玉の愛吉と称され、関東一円の床屋を門前払いされたのだが、ことに酒を飲むと一切の歯止めが利かず、歌舞伎の強請場のような一場を演じたり、手近な娘を強姦して「おう、媽々が出来た」とこき使ったり、
▶愛吉は何、剃刀で殺すぐらいは、自分が下駄の前鼻緒を切るほどにも思わない。◀(『式部小路』三十五)
という、人格破綻者と言ってもいい非道の男である。『三枚続』では作者から黒旋風紋床と形容されていて、『水滸伝』に登場する、幼児そのままの無邪気さと残虐性を兼ね備えた豪傑、黒旋風李逵がモデルになっているのだろう。
ただしお夏の前でだけは忠犬のような従順さを示して、生来の純粋無垢をあからさまにする。
『式部小路』では、薄汚れた世間のなかで、たぐいまれな純粋無垢の性質ゆえにどうしようもなく惹かれあうこの二人――お夏と愛吉が、それぞれの純粋無垢のあらわれである聖性と残虐性という反目しあう性質ゆえに、さらには火の化身たる男が女を破滅に導く運命の必然ゆえに、けっして結ばれることがない恋を互いの心に秘めているのだが、最後にはその恋を死によって成就させるという、究極のラブストーリーが展開される。
愛吉に肉体を与えたお夏は、山の井医師の結婚相手である子爵家の令嬢を殺すように指示する。その上で令嬢と入れ替わり、身代わりになって死ぬのである。
どうしてそんなことになるのか、あまりにも極端なストーリーの飛躍に驚きながら、読者それぞれが読みとるしかない。
思うに、お夏にしてみればそれが、初恋の相手である山の井医師と結ばれたいという願いと、魂の結びつきを感じる愛吉との恋を実らせたいという切望の両方を成就する唯一の方法だったのではないか。
それにしても崇高の性質を帯びたヒロインが、野良犬のような男に体を任せたという記述は、鏡花の、いや明治期の小説としてはかなりショッキングで、検閲のある時代にここまで描くのかという驚きがある。深作欣二監督の名作『仁義の墓場』に出てくる破滅型のやくざ、石川力夫(渡哲也)と娼婦(芹明香)の、聖なる、とでも冠したいようなセックスシーンを思い出してしまうのだった。
……と、上では、まるで普通の小説のようにストーリーをかいつまんでしまったのだが、『式部小路』という小説は、まるでそんなふうにすんなりとは読めない。
とんでもなく魅力的な細部に満ちてはいるものの、並列的なキャラクター紹介に終わった感がある『三枚続』に対して、『式部小路』は時系列や語り手、語りの入れ子構造が異常に錯綜している。ことばが難しいという以前に、誰が物語のどこの部分を語っているのかが、少しでも気を抜くとわからなくなる。別視点の断片が挿入されたり、「見よ。(此の第一回を)」などと、時系列がわかりにくい部分の繋がりを作者が指示した語句なども挿入されるほどで、その複雑さは前衛的といってもよく、さながらミシェル・ビュトールあたりの実験的なヌーヴォー・ロマンのようだ。
先日の日記、「鏡花読書~鏡花の衣服描写と月下園」で書いたように、せめて普通の小説のように適宜、内面描写を交えさえすれば、格段に読みやすくもなるのだし、実際『三枚続』では、そういった書き方がされている部分もある。しかし『式部小路』では説明的な内面描写が完全に排除され、そのために各登場人物には内面を語る会話の相手が必要になり、さらに登場人物が増えることでますます読者を混乱させる。
こんな面倒な書き方が意識的でないはずはなく、鏡花はここでキャラクターや設定の極端化と同時に、描写や構成についても極端を突き詰めようとしている。『式部小路』は、鏡花小説史上最も愛すべきヒロインの造形と、最も過激な叙述の試みが同時進行する、(それゆえに分裂寸前の)破格の小説でもある。
〇
鏡花作品の表紙や口絵を彩る画家には、水野年方、鏑木清方、鰭崎英朋、橋口五葉、岡田三郎助、池田輝方・蕉園、小村雪岱ら、錚々たる面々がいるのだが、最も鏡花らしいと思える物語世界を体現しきった画家といえば鏑木清方だろう(清方は岩波鏡花全集の装丁を、小村雪岱から席を譲られて担当している)。
『三枚続』はそんな鏑木清方と鏡花との初のコラボレーション作品でもあって、「三枚續 口絵 鏑木清方」などのワードで検索すれば、ヒロインのお夏が蔵人と名づけて可愛がるシャモを抱きあげた、たまらなく魅力的な木版口絵を目にできる(数ある鏡花本の挿絵、口絵のなかでも、私はこの一枚が最も好きである)。
また清方はのちに、鏡花が清方自身に『三枚続』の口絵を依頼している場面を画題として採り上げていて(「小説家と挿絵画家」昭和26年、絹本彩色、個人蔵)、そこにはまさに我々が思い浮かべる、見るからに凜々しく、潔癖そうで、どことなく女性的な文豪鏡花の姿がありありと描かれている。これもまたすばらしい。
『三枚続』と『式部小路』の巻頭には、(上の青空文庫のリンクを開けばすぐに読めるのだが)それぞれ作者の短い序文が置かれていて、ことに『三枚続』のそれは単行本の表紙に描かれた清書草紙(子供の手習い=習字のお稽古に使う清書ノート)に寄せた詩文のかたちで、「このぬし」と書かれた帳面に「御名」をお書きになってください、と呼びかけた不思議なものである。
当の文章が収められている本の表紙について述べるというメタな仕掛けである上に、清書草紙が何を意味するのかがわかるのは、続篇の『式部小路』においてであって、前篇が出版された時点では奇抜、かつ謎めいたことばだったはずだ。後篇であきらかにされる清書草紙の持ち主はもちろんヒロインのお夏であって、彼女が山の井医師の名を草紙に書いていたという事実の暴露を先触れしている。そこから察するに前篇を書いた時点で(あの複雑な叙述を採るかどうかはともかく)続編を書くことは決めていたと思われる。
古書の画像を検索しているうちに、おそらく本を購入した当時の人が表紙に描かれた清書草紙の余白に、自分の名前なのだろうか、文字を書き込んだものが目に留まった。それが本の持ち主の名だとすると、その時点では序文の真意がわからないまま、鏡花がいう「御名」を自分を指すのだと受けとめて、そのとおりに実行してしまったわけで、なんと素直な愛読者なのだろうと微笑んでしまった。




