鏡花読書~起請文、舞の袖
『起請文』(明治三十五年)
雑誌「新小説」明治三十五年十一月号に発表された作品で、翌年同誌四月号には続編にあたる『舞の袖』が掲載された。二篇を合わせると全集で190ページほど。長編に準ずる長さになる。
鏡花は明治三十八年から四十二年にかけて逗子に逗留するのだが、それ以前にも明治三十五年八、九月の二ヶ月間ほど、逗子で療養生活を送っている。この二ヶ月間の「プレ逗子逗留」の経験が直接反映されたほぼ唯一の作品が『起請文』『舞の袖』連作である。
二度目の逗留の際は逗子駅近くに住んで、(『爪びき』で描かれているように)夫婦で市内の散策を楽しむ機会も多かったようなのだが、「プレ逗子逗留」期に住んだのは市街地から外れた山際で、あまり土地に馴染めなかったのかもしれない。のちの四年間がもたらした傑作群のように、逗子ならではの風物の描写が修辞と渾然一体となるような鏡花マジックは、まだ発動しきれていない。
前篇では主に、主人公月岡数夫の複雑な家庭環境と、いかにして彼が東京での学問の道を投げださざるをえなかったかが語られる。
田舎の養父母のもとへ戻った数夫を追いかけてきたのが、東京の恋人お静。彼女はもと日本橋の芸者で、『保名』を得意とする踊りの師匠でもある。病弱な体質ながら、辰巳芸者めいた気っ風も持ちあわせたように描かれて、邪悪な隣人の駒田夫妻の言いがかりをはねのけてみせると、一気に養父母のお気に入りとなる。万事がうまくいくと見えた矢先、数夫はパリ留学の決意を固め、二人は別れ別れになるのだった。
義理人情がからみあった末の愁嘆場が描かれるシンプルな内容なはずなのだが、無駄に描写が複雑で、数夫という人が何をしたいのかよくわからない。前半に数夫の薬でお静が元気になったふうなことが書かれているから、医者になる勉強をしていたのかと思ったら、最後にいきなり絵を学ぶために西洋に行くと言いだしたりする。
そもそも題名の「起請文」がどんなものだったのか、これもまたよくわからない。
『泉鏡花事典』には「題名は作中の数夫が故郷の観世音の御堂に起請文を収め、外国留学の決意をするところから」と書かれている。本文にその内容が示されていないから想像するしかないのだが、やはり両親と恋人の無事を祈願しつつ、勉学の決意を神仏に誓った書面なのではないかと思えてしまう。
ところが、よく読むとそうではない。
留学の意を固めた直後に、数夫は「この誓文は何のこッた」と言って、「其のまゝ誓文に手をかけて、一いきに裂こうとする」(三十三節)とあるので、おそらくは、自分の出世を見限って、村の才能ある子供らの成長を見守りながら、お静とともに平穏に村で暮らす、などという誓いが書かれていたのだと考えられる。
その誓いを反故にして留学をしようというのだが、主人公の足を引っぱる起請文を題名に据えるというのは、なんだか屈折していないだろうか。
養父母の老夫婦はひたすら善意ではあるが、その他の村人たちは腹に一物ありそうな不穏な空気のなか、後ろ向きの起請文が示されて、なんとなく前半の幕が引かれる。
〇
『舞の袖』(明治三十六年)
後篇は静夫が不在のなか、恋人のお静が主人公である。
前篇での悪い予感が的中して、駒田夫妻の悪意が暴発し、因習でつながれた村人たちの総意がそれに追随する。村を訪れる華族のお姫様をもてなすために、お静に踊りを踊らせようとするのだが、当のお静は病身で、しかも(最後に明らかになるのだが)数夫の子供を身ごもっている。
村芝居の準備が和やかに進められていた田舎村の空気が一変。逃げるお静と追う男たちのサスペンスが発生する。
結末は、暗いような、明るいような……。
いきなり田舎に転地した鏡花が、何か病身に辛く思えるような習俗に接したせいなのか、あるいは現地での生活が、作家が終生嫌っていた、故郷の金沢人の封建的な側面に関わるトラウマを刺激したのか、物語の終盤は田舎人の旧態依然に対する嫌悪感というか、もはや恐怖症というべきものがあからさまで、(ジャンル映画のカテゴリーで言えば)田舎ホラーとでもいうべきものに化けてしまった。
それはそれでハラハラドキドキの内容なのだが、そうなると前篇で長々と語られた静夫の生い立ちや、お静の蟹恐怖症の描写が活かせずじまいになる。
『起請文』というあやふやな話が前篇としてあるせいで独立性を持てなくなってしまったのが惜しい。書きようによっては傑作になった話かもしれない。
全体の完成度ではなく、部分を楽しむべき連作なのだった。




