鏡花読書~妖僧記、祝杯、波がしら
『妖僧記』(明治三十五年)
鏡花が口語体の小説を書きはじめたのは、明治三十年四月に発表された『化鳥』からなのだが、その後もぽつぽつと文語体の小説が発表されている。まだチェックしきれていないのだが、そのほとんどは、おそらくは生活費の足しにするために、修業時代に書きためていた短編を切り売りしていたのだろう。(附記:これは間違いで、発表時期の判断は、尾崎紅葉が下していたらしい。)
観念小説の旗手として売れっ子になったのだから稼いでいたのではないかと思えるのは現代人の感覚で、当時は印税という概念がなく、原稿を出版社に売り切るだけだった。しかも新人作家には原稿料が支払われないことも多々あったらしい。
『夜行巡査』(明28)や『外科室』(明29)は一文にもならなくて、初めてまともな原稿料を手にしたのは『琵琶伝』(明29)だったと、鏡花自身が座談会「新潮合評会」(大14)で述懐している。
『妖僧記』もまた、『泉鏡花事典』では「明治二十八、九年頃迄に書かれた作品と思われる」とされていて、内容的にも最初期の『蛇くひ』『蓑谷』『紫陽花』『毬栗』などと同様に、物語的な結構を持つことなく、生々しいリビドーを吐き出すことだけを目的としたかのような作品の一つ。
ガマガエルを食って生きている奇ッ怪な容貌の乞食僧が、若く美しい娘をストーキングする不気味な執念を描いて――それが、以後作品に登場する悪役の按摩たちや『日本橋』の赤熊の原型になっているのだから、鏡花という作家はすでにスタート時点から、数十年後に書くことになる偉大な作品に向かって着々と習作を積み上げていくような作家人生を送っている。
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『祝杯』(明治三十五年)
いずれも、ある女性に思いを寄せていた青年、壮年の男五人が、結婚をした彼女が新婚旅行に出発する列車を見送った帰りに、新橋駅上のビヤホールで大いに飲み交わす、というそれだけの小品。
ほとんどが彼らの冗談や皮肉や嫉妬や自虐、他虐からなる会話に終始するのだが、最後にはそろって気持ちよく祝杯を挙げる。
新婚旅行にホオネムウンと、資生堂ホネケーキのようなルビが打たれていたり、タンスチウという謎の食べ物が出てきたりといった細部が、楽しいといえば楽しい。
タンスチウはタンシチュー(牛タンのシチュー)なり。
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『波がしら』(明治三十五年)
気合いの入った古風な文体で描かれた短編。
舞台は鬼川のほとりとされているのだが、鬼川という河川を調べてもわからない。ひょっとして鬼怒川のことなのかと考えながら読み進めても、どうもしっくりこない。
あらためて調べ直すと、鬼川とは、金沢の武家屋敷界隈の土塀沿いを流れる大野庄用水の古い異名だとわかった。なるほど。ネット上で、今も当時の面影を残す水路添いの風景のスナップを目にしたとたんに、描写の解像度が増してくる。
歌舞伎というのは江戸以前は、発端から結末までのストーリーを追う長編物語的な「通し狂言」として上演されていたのだが、明治以降は有名作品の名場面を含む一場だけを抜き出した「見取狂言」として演目を並べることが多くなった。その結果、前後関係がはっきりしなくても、おなじみのキャラクターが名セリフを吐き、見得を切ることを楽しむという見方が定着するのだけれど、本作はその、見取狂言の一場を装ったかのようで、そのつもりで読まれることを試みたかのように書かれている。
冷たい雨の降りしきる晩秋の宵。芸者上がりの妾の美女が、ふとした成り行きから、零落した金工職人の粗末な家を訪ねることになる。明言はされないが、職人と女は、かつては深い仲だったと思われる。お互いがどうにもならぬ浮世の苦を嘆くところへ、増水した長屋の表から大きな鮭が飛びこんできて、こりゃめでたい、バタバタ、チョンと柝の入るような幕切れ。
ばかばかしいようだが、廻り舞台のような視点の変化や、宵闇が迫るなか、霰、霙が降りしきる夜道の凄まじさ、そしてちょっとした怪奇ムードも添えつつ、書き割りの風景を現実以上に現前化させるかのような、文章の綾がすばらしい。
普通の小説の評価には収まらないタイプの、だからこその鏡花らしさが色濃く映える秀作だと思う。




