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こりすま日記  作者: らいどん


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鏡花読書~瓔珞品

瓔珞品(ようらくぼん)』(明治三十八年)


 面白くて、読後一気につい長々と書いてしまった。

 以下の戯言は無理に読んでいただかなくてもいいのだけれど、要するに、いかにも鏡花らしい面白さの作品でした。 



 瓔珞は辞書を引けばわかることばだが、品はわかりにくい。仏典における編や章に当たるもののことで、「瓔珞の章」とでも名づけたいタイトルを、仏教の宗教家の物語だから「瓔珞品」と飾ったのだろう。


 内容は、鏡花の同郷の親友である吉田賢龍をモデルとした主人公、穂科信良(ほしなしんりょう)の苦悩と、その再起を励ます物語である。直前に新聞連載をしていた長編『風流線』と同じく、当時世間を騒がせていた時事問題を積極的に取り入れたスタイルで書かれているので、背景を知らない今の読者にはピンとこない難物かもしれない。

 さいわい本作については、吉田昌志の論文『「瓔珞品」の素材』に最新の研究結果が尽くされているから、興味のある方はそれが収録された単行本『泉鏡花素描』(和泉書院刊)をあたってみてください。


 背景を知らなければ、この物語が訴えんとする何かはわからないのだから、つまらない作品のはずである。

 実際のところ自分は、本編を読んだ後で上掲の優れた論文を読んでいろいろなことを教えられたのだけれど、真意のわからない初読の時点でのほうが、小説を読む面白さは大きかったかもしれない。

 言わんとすることはどうでもいい、とまでは言わないけれど、何かを訴えようとする、とんでもない飛躍に充ちた語り口そのものが驚異に充ちていて、それほどまでに、これぞ鏡花小説を読む面白さといったものが詰まっている。

 鬼面で人を嚇したあとの、その素顔に真情があるという造りなのだが、鬼面そのものの出来が尋常ではなくて、逆にそれが真情に勝るという、世にも奇妙な魅力、とでも言えばいいのか。



 主人公は穂科信良という宗教家で、東京で自身が校長を務める仏教教育の学校が、京都本山からの資金提供の枯渇のため廃校の危機に瀕している。

 学校延命のための資金提供を本山に求めて、十日のうちに三度ほども東海道を汽車で往き来しているうちに、鉄道事故に遭遇し琵琶湖のほとりの米原駅で下車することになった。

 その地でぶらつきながら時間つぶしをしていた彼は、霊的な暗示の顕現ともいうべき、いくつかの偶然を目にすることになる。不吉を予感しながら琵琶湖畔の名所、天人石(てんにんせき)(架空のもの)を訪ね、忠臣蔵の読本(よみほん)をめくりながら、名物の(ふな)ずしを肴に独り酒を飲みつつうたた寝をしていると、まるで天女のような娘が、(いちご)を詰めた籠を提げて現れた。

 その姿を見た穂科は、娘を恐喝するようにして苺を奪って食べる。

 なぜか彼は、その娘と、彼女が苺を届けようとした女主人のことを知っているかのように振る舞い、娘に向かって自らの懺悔話を語りはじめた。


 かつて穂科は小石川の貧乏長屋住まいをしていた頃に、玄吉という不良少年と出会った。少年は奇妙なほど穂科に懐いて、主人に獲物を運ぶ猫のように花や野菜を持ってくる。そのうちに玄吉は穂科の好物である苺を毎日届けるようになった。穂科はその苺が、キリスト教の孤児院、有隣学院の庭から盗まれていることに気づいたが、キリスト教への敵対心から、むしろ痛快なことだと感じて黙って受け取っていた。

 そのうちに玄吉は、有隣学院の教師に窃盗の現場を見つけられ、叱責されることになる。その翌日、学院は出火し、あっけなく全焼した。その様子を見た穂科は、異教に天罰が下ったと喜び、長屋の連中とともにどんちゃん騒ぎの宴会を開く。

 深夜、焼け跡を散策した穂科は、私財を投じて学院の孤児たちを養ったことで慈母と讃えられた伯爵令嬢、春日井都城子(つきこ)が呆然と立ちつくす姿を見て、衝撃を受けた。


 十年の月日が過ぎて、自身の学校の閉校が決まったとき、穂科は従者となった青年玄吉から、自分が有隣学院を全焼させ、死者二名を出した大火の放火犯であったとの告白を聞く。暇乞いをした玄吉は本山の門前で、壮絶な割腹自殺を遂げた。

 ……そして今、天人石に来て、孤児院の楽園を燃やす犯罪を見過ごして、それどころか祝うまでした自分を責めながら、いつの間にか寝入ってしまった穂科は、自分が鮒になって鮒ずしとして漬け込まれ、さばかれる悪夢に(うな)される。揺り起こされて目覚めた目の前にいたのが、苺を持った天女のような娘であり、穂科は苺泥棒を自分の罪として引き受けて、懺悔をしたのだった。

 すると娘は、それまでの怯えた様子を一変させると、自分はこの山に籠もる春日井都城子の従者であることを告げ、主人からの予言を穂科に伝える。女が姿を消したあと、穂科の前には、再起を促す先祖の神が顕れて……。



 ――と、こんなふうに、わずか八十数ページのストーリーを追うだけでも、説話的な物語の祖型や、西洋の奇跡譚を思わせる要素がこれでもかと詰めこまれているのだろう感触がある。

 もちろん鏡花は、西洋の説話にまで目配せをしているわけではないし、苺が聖母マリアのアトリビュートの一つだと意識したはずもないのだろうけれど、有隣学院や春日井都城子にまつわる描写のなかに、キリスト教の宗教説話らしいムードを直感的に紛れこませている。

 天女の出現は謡曲『竹生島(ちくぶじま)』(作中の主人公は船上からこの島を見ている)、鮒ずしの悪夢は上田秋成の『夢応の鯉魚』によるものだとすぐに気づくのだが、論文『「瓔珞品」の素材』によると、主人公が背負う学校運営の苦難は、モデルになった吉田賢龍のその時点での事情そのものであるし、有隣学院とその火災、苺を盗む不良少年、さらには鉄道事情までもが、現実の事件や見聞に基づくものだという。

 明治後半から大正初期にかけての鏡花作品では、説話的なパターンを小説内部に埋めこむ作劇がしばしば見られるのだけれど、ここまで間断なく多種多様な題材を組み込みながら物語を成立させるのは、神業としかいいようがない。


 とりわけ興味ぶかいのは不良少年玄吉の存在で、彼は本文中、こんなふうに紹介されている。


 ▶私の影法師のようなものでした。此の松の露が凝って、松露(しょうろ)というものが出来るのなら、私の魂が形をあらわして鬼となった、小さな鬼でありました。……昔、陰陽師がつかった、識神(しきしん)と申すものの、童子になってあらわれたような(てい)がありましてね。◀(十節)


 まるで和風メフィストフェレスとでも言おうか。

 あるいは『砂男』、『影をなくした男』、『ジキルとハイド』、『まっぷたつの子爵』、『やし酒飲み』などなど、主人公の自我の分裂を具象化してみせる、海外の近・現代文学の手法を想起させる叙述ではないか。

 さらには、どす黒い悪の権化である玄吉に導かれた穂科の心の闇と、花々と苺に彩られたこの世の楽園のような有隣学院を戯画的に対比させ、善と悪、罪と罰との宗教的な葛藤を貧乏長屋のどんちゃん騒ぎで掻き回すような作劇からは、鏡花とはまるで縁のないように思えていたドストエフスキーのそれと似たものを感じさせる……とまで言ってしまうのは、言い過ぎなのかもしれないけれど。

 少なくとも因果応報や発心再起などという単純で古めかしい内容の物語は、本来ならば、能狂言や説経節、あるいは読本や講談本や、さらに時代が下っておおかたのラノベの異世界転生もののように、主人公の自己紹介や境遇の説明からはじまる、わかりやすい口調で語られるべきものなのである。

 それが、古今東西のどの作家の追随も許さないだろう倒錯的な語り口で語られているという鬼面に驚かされる。そこがいかにも鏡花だとしかいえない怪作なのだった。



 主人公の穂科信良が天人石の傍らで拡げる忠臣蔵の本は、五節で次のように描写されている。


 ▶ボオル紙の厚表紙に、雪輪を散らして、山形段々の枠を取った、下にいの字の星兜、三ツ巴の陣太鼓に(さい)を添えて、怪げに彩色(さいしき)したのは天人石に座し、琵琶湖に面して、繰開(くりひら)かるるべき詩集ではない、経典でない。広く民間に流布して、牛打つ里の(わらべ)といえども、一見(いちげん)してそれと頷く、赤穂義士銘々伝、忠臣蔵の読本(よみほん)である。◀


 これは「ボオル紙の厚表紙」ということばからして、古書市場で「ボール表紙本」と呼ばれている下記の本だとすぐに特定できる。


 足立庚吉飜刻發行、尾形月耕画『絵本 赤穂義士銘々伝』(四六判ボール表紙本)


 明治初期から少なくとも末年頃まで延々と版を重ねたロングセラーらしく、大量に出まわったせいだろう、今でも古書の値段が安いようで、「絵本 赤穂義士銘々伝 ボール」のワードで画像検索をすれば、表紙の写真がいくつも見つかる。

 ……いや、見つかるのはいいのだけれど、ショッキングでもある。

 上に引用した鏡花の描写から、この表紙を想像できる人がいるのだろうか。「ボオル紙の厚表紙に、雪輪を散らして」まではイメージできるにせよ、後がさっぱりわからない。ああ、よく見かけるあの本かと気づく当時の読者でなければ、無理なのではないだろうか。

 鏡花小説を読む難しさを思い知らされる一件。


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