鏡花読書~楓と白鳩、二、三羽――十二、三羽、頬白鳥
『楓と白鳩』(大正十一年)
長らく鏡花との親交があって、鏡花本の装丁を何度も手がけた日本画家、池田輝方・蕉園夫妻の思い出を綴った短編。小説というよりもほぼエッセイである。
池田夫妻は夫婦ともに(現在もしばしば回顧展が開かれている)人気画家であって、大恋愛の末に結ばれたおしどり夫婦として、おそらく当時は誰もが知る存在だったのだろう。そのあたりの明確なイメージがない今の読者には、ちょっとピンとこない話になる。
出来事の中心は、妻の蕉園と死別したのちの輝方が、鏡花の家の庭に楓の木を植えてくれたエピソードで、そのとき輝方は妻が遺した寝々子を羽織っていた。
その寝々子には、蕉園が好きだった「うたたねに恋しき人を見てしより夢てふ物は頼みそめてき」の歌が書かれていたというから、『春昼』のヒロインには、蕉園のイメージが重ねられているのかもしれない。
夫の輝方も没したのちに縁先に舞いこんだ二枚の楓の葉を、池田夫妻が遊びに来たのだと感じた主人公は、翌日迷い込んできた白鳩の脚に糸で留めて、青空に放つ。……そんなセンチメンタルな結末だからか、照れ隠しのように、末文はある作家からの伝聞というかたちで締められている。
〇
『二、三羽――十二、三羽』(大正十三年)
複数のアンソロジーに収められている、鏡花作品のなかでは有名作なのだけれど、ずっと以前に読んだままおぼろげにしか覚えていなかった。
逗子逗留時代の思い出も語られるが、それ以前に東京へ呼んだ祖母を養っていた時代や、逗子から東京に戻って住居を転々とした時代、そして執筆当時のいわゆる番町の家の庭に「雀のお宿」をこしらえた時代のエピソードが入り交じっているので、舞台は一定しない。
それはともかく、読み進めていると、やはり記憶していたとおり、北原白秋の『雀の生活』と同じように、ひたすら雀の愛らしさを観察したエッセイだと感じたのだけれど……。
終盤にいたって、散歩中の作者は、まるで昔話の雀のお宿に迷い込んだような変事に見舞われる。といってもそれは童話的な体験ではなくて、かなりエキセントリック、エロティックなものであることが、いかにも鏡花らしい。
この世と異界が接するイメージをまったく思いがけない方法で浮かびあがらせた、さりげないながらも鮮やかな名品というにふさわしい作品なのだった。
以前に読んで、とくに印象に残らなかった作品を読み返してみると、実はとんでもない傑作だったということが、鏡花小説を読んでいるとしばしば起こる。きっと次に読むときもまた、まだまだ愚鈍な読者だったと思わされるのだろうな。
ところで『二、三羽――十二、三羽』を読むにあたっては、作中で「ごんごんごま」あるいは「雀の蝋燭」と呼ばれている植物を知っているのといないのとでは、その理解にかなりの違いが生じるのではないかと思う。
「ごんごんごま」とはなんなのかは、ながらく不明だったそうなのだが、文学好きの植物遺伝学者である塚谷裕一氏が『異界の花 ものがたり植物図鑑』(マガジンハウス刊、1996)という著書で、その正体をあきらかにしている。
ヤブガラシという雑草がそれで、ネットでは「ヤブガラシ 花盤」のワードで検索すると、ああなるほど、確かに「雀の蝋燭」の形をしている、玩具の「ごんごんごま」に似ているといわれればそうか、と納得のいく写真を見ることができる。
『異界の花』という本を読んで、今でもそこらじゅうで目にするこの雑草を異界への入り口としたと理解することで、作品のイメージがいっそう鮮明化したのだった。
〇
『頬白鳥』(明治四十一年)
作品の舞台はどこかの海岸の村とされて特定はできないが、これも「逗子もの」に属するのかもしれない。
村一番の美女であるお民という百姓家の嫁が、早朝の庚申塚の前で気絶して発見された。彼女は夢遊病者だったのか。それとも人に言えない秘密があるのか……というミステリアスな導入の中編。
村を訪れていた伯爵家の世嗣の君がその真相を語るのだが、謎解きというほどではない。自由恋愛を唱える彼が、お民を村の因習から救い出すという気で略奪しようとしたのだった。
旧時代の封建的な価値観を村の守護神である庚申塚が、新時代の自由恋愛主義を西洋人の持山に建てられて村を見下ろす女神像が、それぞれ象徴する描写を織り交ぜながら、物語は終幕の悲劇になだれこむ。
のんびりとした記述ながら、鏡花一流の映像的な文章は楽しめるのだけれど、結末は庚申塚と女神像の対比というほどには割り切れない、歯がゆさを残すものだった。
作家活動の初期から自由恋愛主義を標榜しながらも、作品の基盤には多分に封建時代の価値観が含まれているという鏡花が抱える矛盾を、矛盾したままイメージに置き換えた作品なのではないかな。鏡花自身が解決できない問題だったことがわかるだけである。




