君よ、文筆にためらうなかれ。君のラノベで平和が建つ。
小学校から高校にかけて、学校で平和についての作文を書くように言われる機会が一度ならずあったものだし、今もあいかわらず続いていると思うのだけれど、あれは嫌なものだった。
戦争体験の話を聞いたり映像を見たり、広島や沖縄に旅行したり、といった機会に、伝聞した話はこんなに悲惨だった、だから戦争はよくないという正解に添った文章を書くわけでしょう。無駄だとまでは言わないけれど、実際は決まったフォーマットのなかで、理解力や観察力、共感力が評価される作文なわけで、平和についての作文が上手に書けて褒められた子が、平和力が高い、なんていうわけでもない。
子供の頭ではそんな釈然としない部分をことばにできなかったけれど、それを指導する教師にしても、たやすく誘導できる子供の意見を平和の側に傾けることをノルマとする以上のことをしようとしているとも思えない。
今の時代に最も尊敬、信頼できる文章の書き手として、先年亡くなったばかりの中井久夫(1934年 - 2022年)という人がいた。名高い精神科医なのだが、社会問題や文化芸術についての幅広い評論やエッセイ、翻訳を遺している。代表作といわれることも多い『分裂病と人類』(1982)は、人類の文明を独創的な視点で俯瞰する名著中の名著で、こんな人にこそノーベル文学賞が贈られて、世界中で読まれたらと思ったものだった。
戦争と平和について書かれた文章のなかで、この中井久夫の『戦争と平和についての観察』(2005)ほど感銘を受けたものはなかった(みすず書房『日本社会における外傷性ストレス』に収録)。
まず中井は、戦争と平和は「決して対称的概念ではない」と指摘する。「前者は進行していく『過程』であり、平和はゆらぎを持つが『状態』である」。前提からして、虚を突かれる。
戦争を過程、平和を状態と、その非対称性を見抜いたことで、両者の性質が鮮明になる。
戦争は過程であるがゆえに叙事詩的である。
指導者のもとで民衆が一体化する。潔く、心が引き締まり、人々の眼差しは澄んでいる。忍耐が倫理性を帯びて、まるで災害時の行動倫理のように心に訴える。軍人のみならず銃後の人々も責任を帯びて道徳的になり、社会は平和時に比べて改善されたように見える。
経済面においても、兵士という膨大な雇用が生まれて失業問題が解消し、兵器という高価な大量消費物質のために無際限の需要が生まれて世の中が活性化する。
未来は明るい幻想の色を帯びる。かつての平和時の生活は、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代として低く思えてしまう。
しかし実際のところ民心を支配するのは「生存者罪悪感」であり、道徳性が高まるわけではない。
未来が明るく見えるのは、多くの問題は都合よく棚上げされ、隠蔽、あるいは戦後に先送りされるためである。戦場の酸鼻な状況は死人に口なしのおかげで伝えられず、実情が万人の目にさらされるのは敗戦直前になる。
社会の裏面では徴兵回避の術策がうごめき、暴力が公認され、暴利が横行し、放埒な不道徳が黙認され、黒社会が公的な任務を帯び、大小の被害は黙殺される。
戦争は大幅なエントロピー(無秩序状態)の増大を許し、自己収束性を持たない。
一方で平和を維持するためには、絶えず負のエントロピー(ネゲントロピー)を注入して秩序を立て直し続けなければならない。これは生体と同じ状態である。
また戦争は、部屋を散らかす「過程」にもたとえられる。部屋を散らかす行為は痛快感を伴い、男性の中の子供性が水を得た魚のようになる。反対に部屋を整理して秩序を保ち続けること(つまり平和状態の維持)は、散らかすことよりも格段に難しい。
上では平和を、秩序を保ち続けることだと言ったが、同じ秩序でも、全体主義国家の秩序は性質が異なる。
全体主義国家の秩序は硬直的であって、裏面で不正が隠蔽され、自己維持性が弱く、しばしばそれ自体が戦争準備状態、つまり高エントロピーの状態である。
平和とは、いわば快適さを目指して整えられた部屋であり、全体主義国家の強制的に整理された部屋とは異なる性質を持つ。
負のエントロピーを生み出すためには高いエントロピー(部屋を片づけたときに出たゴミ)をどこかに排出しなければならない。
その排出の場が、かつての帝国主義の植民地、社会主義国の収容所列島、スラム、差別などとされた。それでも足りなければ戦争が恰好の排出の場となった。
平和、つまり、しなやかで揺らぎのある秩序を維持し続けるためには、一種の免震構造が必要である。しかし、その構築と維持のために刻々要する膨大なエネルギーは一般の目に映らない。
平和が宝物のように見えるのは戦時中および終戦後のしばらくであり、平和が続くと当然視され、平和ボケと軽蔑される。平和が続くにつれて家庭も社会も世間も国家も、全体の様相は複雑化、不明瞭化し、見渡しが利かなくなる。
平和時は、戦争に比べて大事件が乏しい。人生に個人の生命を越えた意義づけをせず、生きがいを与えない。これらが退屈を生む。人に、社会の中に埋没した平凡な一生を送らせる。その人生は人を引きつけるナラティヴ(物語)にならない。
平和運動において語り継がれる事項の大部分は戦争体験(陰画としての平和)である。戦争を知らない人に耳を傾けさせるためには単純化と極端化と物語化は避けがたい。真剣な平和希求は、皮肉な姿勢に取って代わられがちで、反戦はしばしば平和の構築になりそこねる。
平和の状態においては多くの問題が棚卸しされ、あげつらわれる。多くの不正が明るみに出て、社会の堕落が意識される。そして社会全体の欲求水準が高くなる。
人間は外挿法思考(現在の傾向がいつまでも続くという考え)に慣れているので、未来は今よりも冴えない、暗いものに感じられる。社会全体が欲求不満に陥りやすい。社会の統一性が見失われる。
また、経済循環の結果として、周期的な失業と不況におびえる。その結果被害感が強くなり、自分だけが疎外されている感覚が生まれ、責任者を見つけようとする動きが煽られる。
指導者は責任のみが重く、疎外され、些細な非をあげつらわれる。嘲笑の的にさらされ、社会の集団的結合力が乏しくなる。指導者の平和維持努力が評価されるのは半世紀から一世紀後で、それまでは浅薄な目には戦争はかっこよく、平和はダサいと見えることになる。
戦争の過酷さを経験していない人が指導層を占めるようになると、戦争への心理的抵抗が低下する。開戦の権限はあるが、戦争の実態とその終結のさせ方、その得失は何かを考える能力も経験もなく、その欠落を自覚もできなくなる。
民衆もまた、国家社会の永続と安全に関係しない些末的な摩擦(国境問題など)に際しても容易に扇動されるようになる。
そして開戦を迎える。
……以上が『戦争と平和についての観察』の冒頭部分の概要になる。
つまり戦争は過程であるがゆえにわかりやすく、人びとの心が一つになり、社会は清廉なものに映り、未来は確としたイメージを帯びる。
一方で平和は状態であるがゆえにわかりにくく、人びとの心はバラバラで、社会は汚濁に満ちていると感じられ、延々と続く閉塞感に悩まされる。
まるで逆説のように思えても、世界の現実に照らしても筆者の「観察」は的確に順接的である。戦争に付随するイメージが偽りでしかない以上、実際の戦争がもたらす得失を秤にかけただけでも、極力平和を選択するに越したことはない(侵略行為に対する正当防衛的な戦闘などの問題は、以後で検討される)。
われわれは学校という準全体主義的な環境のなかで、単純化、極端化、物語化された戦争体験を聞かされて、その対局にある平和のイメージを尊ぶ作文を書かされてきたわけで、そこで書かされたものは、現実に目の前にある平和の「状態」からは何重にもねじれたものになっていた。
平和についての作文の書きにくさに悩んだことは、それが直感的であったとしても、むしろ平和について真摯に考えた証拠ではなかったか。
そして思うのだけれど、この不透明で、英雄不在で、だらだらとして、生きがいを持てない、常人には耐えがたい退屈さに倦んだ平和というものをなんとか我慢することにかけては、日本人は人類史上に類のない特殊スキルを持っている。なにしろ過去に一万年を越える平和状態を維持した縄文時代をやりすごし、のちには二百五十年におよぶ鎖国時代にそのスキルを洗練させたのだから。
あきらかに江戸の民衆文化に根を持つ日本のポップカルチャーというものは、もしかするとわれわれが半笑いで感じているよりもずっと真面目な意味で、世界に益する知恵のようなものなのかもしれない。




