鏡花読書~桜貝、新通夜物語
別世界の読書から、しばらくぶりに鏡花読書に戻ってきた……のだけれど、難物にぶつかって、全巻通読の心が折れそうになる。まだ精読した作品は半数にも達していないのに。
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『桜貝』(大正四年)
海岸の別荘で侍女と暮らしている、どこぞの御大家の御新造らしき美人がいて、地元の人から桜貝の奥さんと呼ばれている。
深夜、強姦を目的とした無線電信という名の強盗が侵入。
桜貝の奥さんは、この強盗に押さえつけられるのだが、枕もとには遺書が置かれている。どうやら彼女は、自殺しようとしていたところだったらしい。遺書を読んだ強盗は……。
設定が劇的で面白いのだが、鏡花小説としては紋切り型かと思える結末。
『新通夜物語』(大正四年)
亡くなった能役者の家に集まった人々が語る、葬儀の夜の思い出話。
いかにもしんみりとした話にまとまりそうなところだが、鏡花自身がモデルらしき主人公以外に登場するのは、ほぼ従姉の女たちばかり。鏡花得意の、亡き母の代理たる肉親女性全員集合みたいな、いいようにゆがめられた世界である。
その登場する女たち(お常、お悦、お米、お組)の関係が、文面を読んだ限りではよくわからない。
いったいどういう女たちなのかと呻吟しながら読んでいくうちにようやくわかったのだが、どうやら、お米、お組姉妹が、鏡花の亡母すずの「鼓奏者の家」の人で、その家の長男が芸養子になった「能役者の家」の長女がお常で、その弟の嫁がお悦という、実際の親戚関係をそのまま写し取った小説のようだ。
篇中ではそんな関係性がほぼ説明されていないので、鏡花周辺の家系図が念頭になければわかるはずがない。
当時の鏡花の身辺に集まっていた崇拝者にしか人物設定が理解できなかったのではないかと思われる、困った小説なのだった(ちなみに本作は、単行本『彌生帖』に収録されたのだが、出版元は鏡花愛読者の会「鏡花会」による出版社、平和出版社だったことからも、内輪向けな印象を受ける)。
しかも、語られる思い出話というのが、いちいち能楽やら講談やら草双紙やら小説やらの内容にひっかけて語られるので、そのたびに調べなければ、何を言っているのすらかわからない。
「枯野見と称して向島の吹曝しにお共申附かって」とか、「赤樫満枝怪しからん」とか、「没羽箭と号して礫を飛ばし、毛野胤智と名告って居合いを抜いたもの」とか、調べるにしても手間のかかる言い回しが乱立する。
最後の最後にちらりと出現する怪異にしみじみとすべきところなのだが、へとへとに疲れて気持ちが入らない。自然主義が台頭した文壇からハブられた反動で、狷介の度が過ぎたのではないか。
読みにくい鏡花小説は数あれど、これほど読むのに苦労したことはなかった。
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とはいえ『新通夜物語』には、芸の核心を突くこんなセリフがあった。
「……誰でも、芸事は身に備って、為ようと思えば出来るんだけれども、世間で許さない事が多いから、身体が危くって出来ないんです。
叔父さんのような芸人は、舞台へ立って、其の出来ない芸事を、私たち素人のために、丁として見せて下さるんじゃありませんか。」
芝居をする、音楽をする、絵を描く、詩や小説を書くなど、役に立たないことをやることの意味が示される。
「ねえ、姉さん、分けても色恋よ。……婦が一生懸命に成った時は、皆立派なお役者だわ。たゞ無事に所帯が持ちたいばっかりに、素人で見物の方へ廻ってるんじゃありませんか、……詰らないわね。」
鏡花にとって、芸術至上主義と恋愛至上主義は表裏一体なのだった。




