工藤綾子
工藤綾子のエッセイ『磯づたい』より。亀の恩返し。
――――――――――――――――――――――――――――――
仙台に嫁いで二十五年ほどが過ぎた八月の初め頃、海辺の景色を楽しみたいと思い、塩釜の港から船に乗り込んで、東宮浜、代ヶ崎浜、菖蒲田浜、松ヶ浜と、宮城の七ヶ浜をめぐったときのこと。
松ヶ浜に亀霊神社という亀神様を祀った神社があり、川子浜の漁師からその由来を聞いた。
今から十年ほど前、漁師が六、七人の仲間たちとともに沖に出て釣をしていると、そのうちの一人が1メートルを超える大海亀を釣り上げた。
こういうときは亀に酒を飲ませて海に放してやるのが昔からのしきたりなので、いざ飲ませてみると一本まるごと飲み干してしまった。さすが、亀は酒飲みだといういうだけのことはある。この亀を放したところ、翌年の夏にまた同じ沖に現れたから、そのときも酒を飲ませて放ったのだった。
さらに一年後のある朝。磯から五十メートルほどのところに亀が浮いていることに漁師は気づいた。船で近づいてみると、背中に見慣れない貝を背負っている。最初に放ったときに印を付けておいたので、同じ亀であることは間違いない。
また今度も酒を飲ませてやろうとしたところ、亀の左手が食いちぎられているではないか。漁師は仲間を呼んで、四人がかりで亀を船に引き上げて沖まで運んでやったのだが、夕方になるとまた磯に近いところに戻って亀は死んでいた。
ことばは通じないものの、酒を飲ませてくれたお礼にと、貝を運んで来たのだろうと、なんとも悲しく哀れに思えて、磯の小高い場所に墓を作って弔った。その塚が今は、亀霊神社と呼ばれている。
亀が持ってきた貝は、話を聞いた海女の少女たちが珍しがってもてあそんだせいで、少し欠けてしまった。あとは子供のおもちゃにでもしようと思っていたところ、半年ほどが経った頃に立ち寄った旅人が、これは浮穴の貝というものだ、一体どうして手に入れたのかと問うのでいきさつを話したところ、なんとも珍しい話だ、宝とすべきだと教えたので、急にありがたいものに思えてきた。
――そんな話を聞いた私は、深い海の底から貝を持って来た亀のことを思った。そこには恐ろしい怪魚などが棲んでいて、めったに人も近づけないから、この貝も人目に触れることがなかったのだろう。
亀は漁師に釣り上げられて殺されたかもしれないところを助けられたばかりか、珍しい飲み物まで、それも二度にわたって与えられ、お礼にこちらからも珍しいものを贈ろうと、海底の怪魚と戦って、片手を奪われながらも、なんとか貝を捕ってきたのだろう。そう思うと哀れでならない。頑丈な生き物であるはずの亀が瀕死になるほど弱ったのだと思うと、どれほど激しく戦ったことだろうか。
――――――――――――――――――――――――――――――
工藤綾子(あや子)は、宝暦十三年(1763年)生まれ、文政八年(1825年)没。ペンネームは只野真葛。
『磯づたい』は、今から207年前に書かれたエッセイ・紀行文だけど、簡潔、明晰、平易な文章で(親切な校注のおかげでもあるが)驚くほど読みやすい。上の文章はちょっと手を入れただけで、現代語訳というほどのものでもない。
そもそも名前からして200年前の人とは思えない。
東洋文庫334『むかしばなし 天明前後の江戸の思い出』(中山栄子校注)より。
〇
亀霊神社は今も(私有地内に)あるそうで、亀が持ってきた貝も保管されている。写真を見ると、日本には生息していないはずのオウム貝のようだ。
最先端の知識を身につけて、科学者といってもいいほど頭脳明晰だった只野真葛が当事者から直接聞いた話だというのだから、実際にあった出来事なんだろうけれど……亀はどこからオウム貝を採ってきて、どうやって背中に乗せたのだろうか。
『むかしばなし』には、ドッペルゲンガーを見た男の話も載っている。
それを読んだ学生時代の芥川龍之介がノートに書き写していたそうで、それが後年の自殺の引き金になるなんて、読んだ芥川自身も、もちろん書いた只野真葛も、思いもよらなかったのだろうな。




