鏡花読書~紅葛
『紅葛』(大正三年)
鏡花の作品は、(数をカウントする漢数字を除いて)すべての漢字に読み仮名がついている、いわゆる「総ルビ」になっていて、これは誤読されるのを嫌った作者が、原稿の段階から自ら振ったものだった。
けれどもそれは本文に限った話で、なぜか題名にだけは、一貫してルビが振られていない。
だから『鴛鴦帳』は「おしどりちょう」なのか「えんおうちょう」なのか、『鷭狩』は「ばんかり」なのか「ばんがり」なのか、『露肆』は「ろし」なのか「ほしみせ」なのか、いろいろと悩みの種が尽きない(上に挙げたものは後者が正しいと思われる)。
『紅葛』はその最たるもので、調べると信頼のおけそうな複数の人や資料では(とりわけ、基本資料とされる「泉鏡花事典」においても)「べにくず」とルビが振られている。
きっと信頼するに足る何かがあって「べにくず」になったのだろうが、にもかかわらず「べにかずら」とルビを振っている人もいるし、最新のテキストである「新編 泉鏡花集」でも「べにかずら」となっている。
問題なのは、「べにくず」だと意味がわからないことで、箱根の山中に棄てられた紅い扱き帯を、紅葉した蔦植物と見間違えたらしい篇中の描写からして、「べにくず」は何かの間違いで、やはり「べにかずら」が正しいのだと思う。
それにしても、そもそもの話、「紅葛(ベニカズラ)」という植物があって、これは茜の異称で、根を茜染めの染料に使うのだが、紅葉するわけではない。
だから「ベニカズラ」ではなくて「紅い色の葛」なのだろうが、「葛」という字にもまた「くず」と「かずら」という読みかたがあって、前者の読みなら葛粉を採るマメ科の植物で、これも紅葉はしないが、紅い花が咲く。後者なら蔦植物全般を指す言葉になる。
つまり「アカネの異称のベニカズラ」か、「紅いクズの花」か、「紅葉したツタ植物」かという、読み方や字の区切り方によって三種類の解釈ができるのだからややこしい。
こんなものにこそ、読み仮名を付けてほしかった。
〇
で、その、大正三年十二月に発表された鏡花の短編『紅葛』なのだけれど。
ほとんどの鏡花の小説は因果物語になっている。
幕切れの展開や回想、告白などによって物語のつじつまが合うことになる。あるいは、因果関係の説明を放棄して、シュールな後味を狙うものもある。
けれども『紅葛』という作品はそのどちらでもない。
たまたま箱根という土地で邂逅した、世間から転落してさまよう画工と、死ぬつもりでそこに来た芸妓が、それぞれの人生の上での過去の接点を見出し、一時的な共鳴をいだくものの、おそらくはそのまま他人の関係に戻ってしまうのだろうという、鏡花には珍しいタイプの作品なのである。
いわゆる現代文学とか、純文学とかでよくある、きわめて現代的な、都市生活の一断面を感じさせる、わずかな時間だけ交わされた、行きずりの個と個の共鳴、とでもいった筋立てを読むと、ナディン・ゴーディマの『隠れ家』という、その種の傑作を思い出してしまうのだけれど、そんな現代小説と同じような物語が絢爛かつ難解な、いつもの鏡花的修辞をまとって語られているから頭が混乱して、えっ、鏡花ってこんな小説も書いたんだ、と驚いてしまう。
鏡花全集を手にして古風な活字が並んでいるのを目にすると、また歌舞伎の台本みたいな話か、説話物語みたいな幻想譚だろうなとうんざりしかけるのだけれど、実際に読んでみると内容は驚くほど多彩であり、あるものは近代性、いや現代性を感じさせる小説だったりもする。
紅い扱き帯を乱暴な男たちからかばって気絶した主人公がススキの会話を聞いたり、宿で出会った伯爵と女がトランプのカードを使って密談をしていたり、細部の描写もきわめてユニークで、古風にしてモダン、懐旧のようでアヴァンギャルドな、最良の鏡花作品の一つなのだった。




