鏡花読書~遊行車、二た面、艶書、参宮日記、魔法罎
大正二、三年頃の鏡花作品を読み進める。
作風の転換期にあたるようで、中絶した作品が多い。
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『遊行車』(大正二)
『二た面』(大正二)
意外にも、鏡花作品はほとんどが明治・大正当時の現代小説で、江戸期を舞台にした小説はごくわずかしか書かれていないのだが、これはその、珍しい時代小説。
1月6日の「鏡花読書」の記事に書いた『片しぐれ』(明治四十五)のリライト作品で、江戸のナンパ師、元二シリーズとでもいうべき作(主人公の名前は変えられているけれど)。
『遊行車』が本編で、上田秋成の怪異譚か、怪談牡丹灯籠か、といった、ちょっと古めかしい話。ただし怪異である女が、最後に快楽殺人マニアのような貌を見せるのが面白い。
『二た面』は『遊行車』のサブエピソード。内容は『片しぐれ』とほとんどダブっている。
このシリーズ(?)にはもう一作、『一席話』という小品があるらしい。
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『艶書』(大正二)
病院の門前に座った男が、来訪者に石を投げつける。一体なぜ? という奇抜な設定に驚かされる。『三人の盲の話』や『糸遊』(ともに明治四十五)と同じような、奇妙な味の短編。
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『参宮日記』(大正二)
全集で188ページある中編。
花札好きの妖艶な年増芸者、鼓を打つ美女、いやらしい金歯の金満家、片目のピストル使い、鵜と渾名される按摩など、クセの強い人物たちが次々に登場して、謎めいた言動を重ねていく。
主人公は彫刻師の大矢三千枝という男で、本作は尻切れとんぼで終わった短編『歌仙彫』(明治四十五)のリブーテッド作品なのだった。しかもなんと、本作もまた、ようやく話が動きはじめたところでプツンと終わっている。
なるほど。再度トライしても完結させられなかった彫刻師の物語を、職業を絵師に、舞台の伊勢を深川に変えて、執念で完成させたものが、長編『芍薬の歌』(大正七)ということらしい。
長編の踏み台にされた未完作品だから読まなくていいのか、というと、まったくそんなことはない。
部分的な叙述に突出したものがある。とくに主人公が橋のたもとで怪しい木の彫刻が売られているのを見つける場面(三十五節)などは、鏡花の伝奇的な側面をこれに代表させてもいいと思える、最高の文章が味わえる。
▶神か、鬼か、魔か、人形か。
鎖されたる堂、朽ちたる祠、落葉の中、薄の奥、世には名も知れず姿も消えた、神霊と鬼気とがある。……亡びたる勇士、虐げられたる美女、祟りなす蛇、其は鬼。忠臣、孝子、烈女、節婦の、其は神。数ふるに遑はない。
草深き野中の森のつま社
こや花薄穂に出づる神
夫木集にありぞとよ。
今眼前思出す……三千枝は其の目口刻める人の首を、深く、暗く、且幽かに、美しく、由緒あるものと見た。◀
この前後で鏡花は、仏教伝来以前からあった日本の古代祭政体――ミシャグジ信仰など――に手を伸ばす、あきらかな感触を示しているのだし、それは深川ではなく、諏訪信仰の本拠地に近い場所を舞台にしたこの小説でしか書き得なかったものなのだろう。
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『魔法罎』(大正三)
これもまた、冒頭だけ書かれて放置された作品。
書かれているほとんどは、長野県の中央を縦に走る篠ノ井線の車中の描写と、上諏訪の宿に到着するまで。
汽車の窓から風景を見た、というただそれだけのことが、冒頭三ページにわたる圧巻の描写となる。
宿の空き室で、鳥の玩具を糸で操る女の姿を見かけたところで、「此に就いて、別に物語があるのである。」とほのめかしたきり、唐突に終わる。
……かといって、物語的に続く作品はないようなのだが、同じ車中や窓外の風景が描かれた『皮鞄の怪』(大正三)、『唄立山心中一曲』(大正九)の連作として練り直されたようだ。




