鏡花読書~五大力……それから
泉鏡花『五大力』(大正二年)
ここのところ読んできた、鏡花全集巻十四の掉尾を飾る中編。
読み終わってみると、とても奇抜な、鏡花にしか書けないような奇譚だったことがわかって、反芻しながらニヤニヤしてしまう。
仏教的な霊験を背景にした能楽の芸の力が、ある病者を治癒するという、奇抜ではあるが筋の通った、超自然的な理由に頼らなくても説明が可能な、現実的な因果関係を備えた――怪談でもファンタジーでもない、語り口が導くイメージによって支えられた、きわめてユニークなホラーなのである。
かといって一筋縄ではいかない。話がシンプルであればあるほど、語り口を錯綜させるのが鏡花という作家で、読み手はいきなり迷路のなかに投げこまれて、いつ出口が見つかるのかさえ見当がつかない。
文章も難解なうえに過度の省略が施されていて、ストーリーを追うどころか、何について書かれているのかを読み取ることに多大な労力を割かなければならない。
たとえば、主人公が茶飯屋に入って、
「茶飯、燗酒、小皿盛か……おでんもあるね……やあ、梅川」(p675)
と言うのだが、「梅川」というのが何なのかさっぱりわからないまま会話が進んでいく。おそらくは飯屋のメニューに書かれているものに違いないと思って、「梅川」という飲食物について調べることに時間を取られるのだが、それらしきものは見あたらない(ただし、それを調べたことで『冥途の飛脚』の梅川忠兵衛のことを思い出すので、手間が無駄にならないのも鏡花作品らしさ)。
これが何なのかがなんとなくわかるのは、その10ページ後、はっきりとわかるのは60ページ後のことで、ある由来があって、おそらく店の名前として、行燈に書かれている文字なのだった。
そんなこんなのまわりくどい描写やら、古典や芝居や遊廓や当時の深川周辺の知識がないとわからないことばやらに振りまわされながら手探りで読んでいるうちに、女郎の梅川、下駄屋の客の女、雨のなかで声を掛けてきた女、五大力船に乗った女、こちらを振り向かない女郎、弁天様、女優の月岡霞と、たくさんの謎めいた女たちが登場する。これらが同一人物のようでもあり、別人のようでもあり……あっけにとられる読書の時間が過ぎていく。
もちろん先に書いたように、最後には話がすっきりとまとまるのだけれど、そこにたどり着くまでの苦労でへとへとにされてしまう。
最終的に見えてくる物語の筋も面白いのだが、難解な文章に迷わされること自体を楽しむ気持ちがなければそこまではたどり着けないという、倒錯的な読書の姿勢を強いられる作品なのだった。
これも鏡花の怪作の一つ。
〇
このままもう少し鏡花全集を読み進めようか。それとも腹案のある他のことに取りかかろうか。悩む。




