鏡花読書~歌仙彫、紅提灯、浅茅生、印度更紗、霰ふる+鈴木清順
『歌仙彫』(明45)
女のような名前の青年彫刻家が主人公という、『神鑿』を連想させる設定。彼の名前は、矢的三千枝。
ミステリアスな展開の末に、見知らぬ少女が売っていた「歌仙彫」が、なんと自分の作品だったわかったところで胸が躍るだけれど……。
『南地心中』という、濃密な蒔絵のような作品で苦労した反動なのか、伸びやかな筆遣いの作品が続いていたところに、本作でも筆が走りすぎて紙面が尽きてしまったから、とりあえずサマになる結末をこじつけてまとめた、という印象。
読後に、本当にそれでいいのか、大事なことを読み落としていないのかと心配になって、先人の評価を探してみた。
→須永朝彦「若き芸術家の苦悩が主題らしいが、展開不足。」(「幻想文学35」)
→松岡正剛「この不思議な感覚の消息は、ユングやバシュラールでは解けまい。……ここが鏡花の真骨頂なのである。」(千夜千冊「日本橋」)
やっぱりそうだよなあと、自分も須永朝彦に与したい。話の流れの上でなのはわかりますが、正剛さん、この作品でそれは、ちょっと大上段ではないですか。
『紅提灯』(明45)
深夜、稲荷神社にお参りをする主人公。
なにやら不気味な雰囲気を感じたところで、堂守の爺の不思議な術で拘束されて、狐のお面のようなものを顔にくっつけられる。
そこへお堂の姫様が出現。爺はご近所のアイドル、お米ちゃんを狙う曲者を捕らえたつもりが、人違いであることを姫が指摘する。
……お稲荷神社の姫神様と堂守がペアを組んで、ご町内の平和を魔法で守る活動をしているのである。
「CCさくら」とか「プリキュア」とか「まちカドまぞく」とか、そんな世界観なんだな。なんとも愉快な作品。
『浅茅生』(大1)
隣家の二階の窓と窓で、若い男女が会話を交わす微笑ましい話が、後半では死神に憑かれた女たちの怪談になだれ込む。
『紅提灯』とは対称的に、こちらは怪僧と死神女がペアになって災厄をもたらしている。
浅茅生の庭や病院の怪奇な雰囲気の描写も秀逸だし、鏡花小説で、ここまで霊体を具体的に描写した作品もちょっと珍しい。
『印度更紗』(大1)
博士の夫人が白いオウムに語って聞かせる、インド、ベンガル地方を舞台にした奇譚。
千夜一夜物語の一篇のような話は、江戸時代の漂流記に書かれていた内容に依るものなのだそうだ。
枠物語の仕掛けがちょっと安易な気もするが、『歌仙彫』と同じく、取って付けたような結末であっても、それはそれで名人芸という域に達している。
『霰ふる』(大1)
子どものころに見た幻の二人の女の話。
早くに母を亡くした主人公が、生涯にわたって数回、その女たちを目撃する。
面白いのは、幻の女たちについて、主人公はまったく心あたりがないこと。因果関係のない怪異なのである。
女を目撃する以前、稲光の光る夜に怪しい声を聞いて、まだ生きていた母親の懐に抱かれた記憶が、その女たちを見ることで甦る。だから主人公にとって、二人の女は好ましい怪異だという、ひねった話になっているのが面白い。
〇
この数日の読書で、鈴木清順の映画の元ネタが判明した。
映画『陽炎座』で、大楠道代と楠田枝里子が船で通り過ぎていくショットは、『霰ふる』(大1)の、二人の幻の女が船頭のいない船に乗って行く記述から。
映画『ツィゴイネルワイゼン』で、三人の瞽女が登場するショットは、『三人の盲の話』(明治44)。映画でも、鏡花作品でも、若い盲人、女の盲人、年老いた盲人の順につながって歩いている。




