鏡花読書~南地心中、片しぐれ、三人の盲の話、糸遊
『南地心中』(明45)
鏡花全集を読んでいると、読み進めるたびに、凄い、凄い、みたいなことを言い続けなければならないのだが……。
なんだか驚天動地の作品を読んでしまったなあ。
表向きは、絢爛豪華な修辞に彩られた古風な心中物語なのだけれど、その一方で、現代のどんな小説と比べても大胆きわまりないとしか言えないような前衛性も備えた小説なのだった。
全鏡花小説のなかでもとりわけ重要な作品の一つではないか。
まず『南地心中』は、『註文帳』(明34)からはじまって『日本橋』(大3)に至る、「己が命の早使い」の説話の祖型から物語を作る試みを中継ぎする位置にあるのだけれど、構造はいたってシンプル。そのど真ん中に、「橋姫」の物語であることの明確な宣言と、奇抜な視座の転換、まさにフロイト的とでもいうべき欲望のシンボルが配置されていて驚かされる。
……いや、何を言っているのやら。
いずれじっくりと、そのことを書くことになるかもしれない。
『片しぐれ』(明45)
洒落た題名からしっとりとした話を期待しながら読んだのだが、なんのこともない、江戸時代のナンパ・テクニックの一断面、といった短編だった。
のちに連作『二た面』『遊行車』でリライトされるのだそうで、こちらは未読。
『三人の盲の話』(明45)
また、いつもの、按摩が出てくる古風な怪談かと思ったら、きわめてモダンな、奇妙な味の短編でした。すらすらと読める。
設定を現代に置き換えても面白いのではないか。
『糸遊』(明45)
これもまた鏡花には珍しく、錯綜したところのない、すっきりとした怪異譚。
文体はまったく違うけれど、晩年の吉行淳之介が書いていそうなストーリーである。
〇
あいかわずこのあたりの鏡花は、おおよそ傑作、ときどき大傑作。
『南地心中』は、二十年以上前に初めて読んだときはさっぱりわからず、なんとなくラストのどんでん返しに驚いたという記憶しかなかった。
こんなに周到な大仕掛けが仕込まれた小説だったとは。




