鏡花読書~道陸神の戯、鎧、本妻和讃
『道陸神の戯』(大正十四年一月)
どことなく西洋文学の翻訳(『愛神の戯れ』だとか)を意識したようなタイトル。鏡花小説ではおなじみのモティーフを多用した、軽いコメディ作品である。
『恋の飴売』なる、赤面もののタイトルの芝居を絶賛上演中の劇作家、権九郎先生(仮名)が主人公。金沢を思わせる故郷に戻って路地を散策していた彼は、道陸神(道祖神)の戯れかと思える突風に吹かれてドブに落ちてしまう。全身泥まみれの情けない姿を持て余したところを、たまたま通りかかったのが、帰郷後に会ったばかりの多根子だった。
権九郎先生は極貧の家庭に育ち、幼少期は飴売の行商をして糊口を凌いでいたが、その姿を憐れんで飴をよく買ってくれたのが目貫通りの大商人の令嬢、美根子だった。多根子はその妹である。姉妹の実家や嫁ぎ先は零落して、今はそれぞれ貧乏暮らしをしている。
最底辺から劇作家先生に成り上がって、とりあえずは故郷に錦を飾る形で帰郷した権九郎は、かつての憧れの人であった美根子を訪ねようとするが、嫁ぎ先の破産とともに離縁された彼女の隠棲先がわからない。多根子の協力を得てようやく再会を果たすのだが、権九郎先生は自分の出自に引け目を感じて、思いを伝えられない。
そんな権九郎のうじうじとした姿を見かねた多根子は、「えゝ、じれったいね」と泥だらけの衣服を剥ぎ取って、ほとんど裸体の先生を傘で小突きながら、姉のもとに飛びこんで行けとけしかけるのだった。
美根子=崇高、多根子=侠気というヒロインのキャラクター分けに、マゾヒスティックな性質の男性主人公が加わるのは、鏡花の典型的な人物配置。多根子の口から「じれったい」という、辰巳芸者の意気と侠気を象徴することばが飛び出して幕となる。筆致の軽さが身上、といった作品だった。
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『鎧』(大正十四年二月)
富山の神通川岸と、兵庫の山陰本線鎧駅周辺を舞台にした、二つの奇譚を並べた作品。『鎧』というものものしいタイトルは、後半の土地の名と、そこに伝わる平家の落ち武者伝説を表している。
前半は筆者が十六、七歳の頃、学塾の友だちの故郷、富山に逗留したときの体験談の体で書かれたもの。友だちは女の生き霊が身体に入って暴れまわるという奇病に取り憑かれている。筆者とともに小高い丘に登った彼は、神通川を見下ろしながら、「山媛……来たれ!」と叫んで、春先の屏風霞がかかる空気を深呼吸する。と、霞に吞まれた身体が糸の切れた凧のようにはじけ飛んで、丘の中腹の菜畑に落下した。
以前『妖怪年代記 現代語リライト』の「題材メモ」に書いた、鏡花少年期の富山滞在のいきさつや、『星女郎』で描かれた奇病、『神鑿』の主人公が体験する空間移動など、明治期の伝奇的な読み物で存分に展開されたモティーフが、ちっぽけな小咄の規模にスケールダウンしているのだからがっかりである。案外、ここで書かれている内容が、それぞれの元ネタに近いのかもしれない。
後半。鎧駅から海浜に至る嶮岨な崖道を、重たげな荷を背負って下る老人に、荷物を持ってあげようと学生が声をかける。親切な若者かと思いきや、老人につきまとってぺらぺらと語る彼のことばからは、自分が将来を嘱望された京都の医大生だという自慢や、老人が帰る先で待っているであろう娘と近づきになりたいという下心が透けて見える。
なおもしつこく追ってくる医学生に、老人が「うるせい」と一喝すると、若者の身体は鞠のように飛んで、窪地の菜畑に落下した。老人は、不思議な力を備えた平家の落人の子孫だったのか。
鼻持ちならない色男ぶった若者が、下心を持って怪異に付け入ろうとしたところ、身のほどを思い知らされる二題だが、並べて語る必要も感じられない。とはいえ、それぞれに痛快感があるし、なによりも絶景を背景に描いた観光的なスケッチとしての読みどころがある。
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『本妻和讃』(大正十四年二月)
本作の主人公、画家の川村圭吉には、彼が崇拝してやまない、今は亡き師匠がいて、舞踊の師匠である従弟がいて……と、画業を作家業に、舞踊を能楽に置き換えれば、鏡花自身に近い立ち位置である。
そんな圭吉=鏡花が、若い妾に入れあげて本妻を病気にしてしまった従弟の家庭問題を解決するというハートウォーミングな物語。
従弟の留守宅で痩せ衰えた本妻の話に同情した圭吉は、それなら妙案があると、彼女にドレスアップを施し、子供たちには芝居をさせて、妾の家から久しぶりに帰宅した従弟を感激させる。本妻への和讃(仏に捧げる賛歌)が唱えられたごとき光景によって、家庭円満。めでたしめでたし。
こういう家庭劇は、鏡花には他に『七草』(明42)があるのみで、非常にめずらしい。家庭小説といえば紅葉門下四天王(泉鏡花、徳田秋声、小栗風葉、柳川春葉)のうち柳川春葉の十八番だったようなのだが、鏡花もそういう需要を認識して、書こうと思えば書けるのだなあ。
一方で本作は、圭吉が本妻の身繕いを頼んだ、かつては髪結いの名人で、今は剥身屋の媼さんに身を落としているお園の復活の物語でもあって、その点では隠れた名作『爪びき』をなぞっている風がある。なんでもない、軽めの話だが、過去の成功例を巧みに活用しながら嫌みなくまとまっていて、私は好感が持てる。
従弟の本宅は、男子四人に娘三人の子だくさん(上の男二人は家を出ている)で、三男は活動写真の「ジャッキー」を名乗るいたずら者だ。
ジャッキーとはチャップリンの映画『キッド』(1921(大10)年)で子役を演じて当時大人気だったジャッキー・クーガンのことだろう。鏡花も『キッド』を観ていたのだろうか。
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この時期に書かれた一連のマイナー作品――『光藍』『露萩』『甲乙』『道陸神の戯』『鎧』『怨霊借用』『本妻和讃』(大13-14)――はいずれも単行本未収録で、春陽堂版全集で初めて拾われた作品ばかり。
鏡花小説としては総じて質的に物足りないのだが、軽妙な作劇や文体への変化が如実に感じられる時期でもある。




