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こりすま日記  作者: らいどん


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鏡花読書~七宝の柱、若葉のうち、栃の実

七宝(しっぽう)の柱』(大正十年七月)


青空文庫

https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3425_9674.html


 以前の日記(2025/10/11)で採り上げた『飯坂(いいざか)ゆき』の東北旅行の、前半部分にあたる紀行文。大正十年五月上旬からの夫婦の旅の、最初の目的地である平泉訪問が描かれている。

 冒頭近くで毛越寺の浄土庭園を訪ねてから、深夜から早朝にかけての列車内の様子が短く回想されるものの、以降は弁慶堂、中尊寺の本堂、金色堂、経蔵、弁天堂と、巡覧券を使った観光コース通りに、訪れた場所や見たものが順序通りに叙べられるのだから、時空の飛躍が常である鏡花の文章としてはかえって異色を感じてしまう。

 正攻法の構成の端々から控えめに滲み出す物語的想像力の飛躍を味わうといった、立派ではあるが渋い作品だと思う。


 一番のひねりは、タイトルを「七宝の柱」としたことではないか。

 七宝とは、金属にガラス質の(うわぐすり)を焼きつけたものであるはずであって、「金色堂の須弥壇(しゅみだん)四隅(しぐう)にある」巻柱(まきばしら)は蒔絵、螺鈿、金で飾られたヒバ材と杉材からなる柱なのだから七宝とは言えない。「七宝の柱」というのはあくまでも、まるで七宝焼のように美しく装飾された柱、という比喩表現なのだろう。

 さらに鏡花は、金色堂において圧倒的に描写すべき対象であるはずの仏像のことを、じつはまったく描いていない。

 さらりと読めば、金色堂のすべてを写し切った文章だと思えるのだが、あらためて叙述をたどってみると、宙にひるがえる桜の花びらから堂の羽目(はめ)の浮き彫りに視線を誘ってからは、須弥壇という舞台装置の絢爛豪華を四周の巻柱を主として描写することに終始して、衆人の視線を集める十一体の仏像については「弥陀(みだ)観音(かんおん)勢至(せいし)三尊(さんぞん)二天(にてん)、六地蔵」と名を挙げるにとどめている。描いてもいない仏の姿を、読む人の空想のなかに思い浮かばせているのである。


 鏡花にしてはあまりにも正攻法で普通すぎはしないか、と思える描写の裏に、ひっそりと名人芸が仕込まれている。その点においてもまた、じつに渋い作品だと思う。





『若葉のうち』(昭和八年二月)


青空文庫

https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3426_9675.html


 逗子逗留時代(明治三十八年七月下旬から四十二年二月)の鏡花夫妻はよく連れだって野山を散策しつつ、植物図鑑を覗きながら草木の名前を確かめていたようで、その見聞が『春昼』や『爪びき』などに活かされていると思われる。

 大正十三年の四月、小説家の中戸川吉二は、修善寺の旅館で鏡花夫妻に偶然出会って一週間ほど行動を共にした際に、「十二三の少女と十五六の少年とが植物園へでもはいったやうな騒ぎ」でいちゃつきながら散歩を楽しむ姿を見せつけられたそうで、『若葉のうち』で描かれた内容も加えれば、夫婦散歩の習慣は晩年にまで及んだようだ。

(中戸川吉二の回想記は「新小説臨時増刊 天才泉鏡花」(大14. 5)に掲載されているそうで未見なのだが、巌谷大四の『人間泉鏡花』に概要が引かれている。)


 さてこの『若葉のうち』には、その少年少女のような鏡花夫妻の散歩姿が実際に描かれているのだけれど、作中に描かれた旅先の修善寺での二つの散歩のうち、前のものはまさに中戸川が目撃した大正十三年四月の、後のものは(吉田昌志『泉鏡花年譜』で確かめると)昭和三年十一月の出来事だと思われる。

 その二回にわたって、夫妻は人気のない野道でまだ幼い姉妹に出会う。似てはいるが、別の少女たちである。

 これまでの鏡花小説であれば、それを怪異と捉えただろう。ところが、おびえているのは少女たちの側であって、ここでは逆に、当の鏡花夫妻が怪異の役を帯びている。作品全体にもふわふわと浮遊しながら気ままな旅を続ける印象が充ちていて、まるで冥界からの視点で現世を眺めているかのようである。


 以前、最晩年の淀川長治に、もしかしたら最後のものだったのかもしれないファンミーティングでお会いする幸運な機会があって、蓮實重彦があの人は映画の精霊だと言っていたことば通りに、片手でスッと持ち上げられそうにも思える軽々とした身体をはしゃがせながら、無垢な幼児のようにファンとの握手や会話を楽しんでいた姿が忘れられないのだけれど、『若葉のうち』で描かれた鏡花夫妻にも、同様の精霊めいた印象を受けたのだった。

 晩年期にしかありえない、特異な境地を示した名品にちがいない。





『栃の実』(大正十三年八月)


青空文庫

https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3427_9676.html


 明治期の鏡花の金沢帰省について書いた過去の日記「鏡花小説の舞台と鷺の灯」(2025/05/29)でも触れた、明治二十八年十月に帰省先の金沢から東京を目指した旅の回想録。

 当時満二十三歳の鏡花は金沢から人力車や徒歩で鉄道の駅がある駿河(するが)を目指していたのだが、この年の夏に福井県が大水害に見舞われた影響で、いつも使っていた新道が閉鎖されていた。仕方なく今庄、虎杖(いたどり)(現・板取)、栃の木峠を経由する山道ルートを採ることになったものの、脚気(本文中には腹痛とある)の持病があって虎杖で歩けなくなった。

『栃の実』では、この一度きりの出会いで駕籠を都合してくれた親仁や、栃の木峠で親切にしてくれた茶屋の娘のことを懐かしげに振り返っている。


 とはいえ吉田昌志『泉鏡花年譜』には、この上京の旅には「弟豊春を伴っていた可能性がある」と注書きされていて、それが事実であれば出来が悪くて持て余していた弟のことを記憶から抹消しているわけで、穏やかなだけの話とも思えない。

 一方の豊春(泉斜汀)のほうも徳田秋聲を相手に兄の悪口を漏らしていて、当時の兄弟の確執は青空文庫にもある秋聲の『亡鏡花君を語る』や『和解』から窺えるのだけれど、そういった負の感情と『栃の実』は、別世界にあるかのようだ。

 三十年前の若き日の、すっかり浄化された想い出話である。





 以上、前回の『雛がたり』から『七宝の柱』『若葉のうち』『栃の実』の四篇は、鏡花全集巻二十七(小品・紀行の部)にあり、岩波文庫『鏡花短編集』に収録されている。

 なぜこの四篇をいきなり採り上げたのかというと、旅行鞄に入れていた『鏡花短編集』のこの部分を新幹線の車中で再読したからです。


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