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こりすま日記  作者: らいどん


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鏡花読書~露萩、甲乙

露萩(つゆはぎ)』(大正十三年十月)


青空文庫

https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50542_65739.html


『吉原新話』(明44)と同じく、鏡花支持者たちの集いが発展した怪談会の催しに取材した作品。

 主人公は(まき)眞三(しんぞう)という洋画家で、怪談会の幹事である白尾(しらお)の友人である。白尾は会の余興として、肝試しのルートに蚊帳を吊し、敷いた蒲団に古びた卒塔婆を寝かせるという演出を施していた。

 槇は、卒塔婆に書かれた戒名に覚えがあると言う。関東大震災で倒れた師の墓石を修復する際に、石屋の親方が捨て置かれた卒塔婆を養生に使った。その後、卒塔婆の主には充分な供養をしたが、そのときの戒名と同じではないか。

 槇の心配は的中して、戒名の主の女の幽霊らしき姿を、怪談会の参加者のなかに見出すことになる。続いて彼は、蚊帳のなかの卒塔婆に狼藉を働こうとした怪しげな新興宗教の坊主と、流血の喧嘩をする羽目に……。


 さりげない描写やセリフに隠された伏線が巧みに活かされる、よくできた話ではある。本物だか思い過ごしだかわからない幽霊の描き方や、陽根をかたどった形状の杖を振りかざす坊主の憎々しくも外道なりに理の通った悪役っぷりも面白い。

 けれども、『吉原新話』の頃よりも現代に近づいた風俗のなかに置かれた古めかしい怪談には、ちぐはぐな印象を否めない。怪異現象に因果の筋がすっきりと通っているのが逆効果に思える。

 むしろ一番のサプライズは、最後に鏡花自身が、怪談会の発起人の一人だと言って叙述に割りこんでくることかもしれない。

 近作の『きん稲』でも使われた「槇」という主人公の苗字からして、またしても筆者の分身かと思いきや、今回のモデルは岡田三郎助君でした――みたいな、ずいぶん内輪向けのノリで書かれているようだ。





甲乙(きのえきのと)』(大正十四年一月)


青空文庫

https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48402_62552.html


 秋庭俊之(あきばとしゆき)という名の主人公の、人生の節目節目に目撃される、丸髷(まるまげ)銀杏返(いちょうがえし)に結った、正体不明の二人の幻の女をめぐる怪談。

 ……というと想い出すのが、幼い頃に遭遇した二人の幻の女が登場する『霰ふる』(大1)という掌編で、本作はそれを素材として展開させたものにあたる。歳を重ねていく主人公が、幻の女たちとの遭遇を何度も繰り返していくうちに、現実の存在である丸髷と銀杏返の芸妓二人と三浦半島の葉山あたりにある旅館に宿泊するのだが、そこで宿の女主人のお由紀さんという運命の女性に出会うことになる。


 まるで初期の江戸川乱歩のような、こなれた告白体で語られる怪異の数々は雰囲気満点で、ことに宿屋の座敷に吊られた蚊帳を無数の目が覗くといったあたりはかなり怖い。

 一方でお由紀さんも、震災で肉親を守れなかった罪悪感に端を発した幻視の強迫観念に悩まされている(秋庭が目撃した無数の目は、彼女に向けられた村人の非難の追体験なのだろう)。

 そんな折に秋庭一行を客として迎えたお由紀さんは、男客と芸者二人が同衾する蚊帳のなかの様子がありありと幻視されてしまうという、処女ゆえの強烈な性的妄想にとらわれてしまう。

 と、ここまでは奇想天外なストーリーテリングの冴えを感じさせなくもない。が、やがて我慢ができなくなったお由紀さんが、目隠しをして二階の座敷を覗きに行くという意味不明な行動に出るあたりになると、二人の幻の女もすっかり忘れられて、もはやわけがわからない。


 鏡花は執筆時の自身の心境を、愚直に思えるほど正直に作品に反映させる作家なので、このわけのわからない分断の正体こそが震災の被災体験だという深読みもできるのだが、一読者として楽しむ読み物としての出来の評価は、それとは別物だろう。

 扱い馴れた因果ものの怪談の体裁ゆえにシュールな味も出せず、不慣れな性的領域に踏みこもうとして腰がひけてしまい、どっちつかずの中途半端にとどまった感がある。



 以前、『神鑿』(明42、1909)のあとがきで、篇中に登場する怪僧はチェーホフの『黒衣の僧』(1894)に触発されたのではないかという根拠のない憶測を書いたのだが、『甲乙』(1925)で描かれた、二人の幻の女が増殖をする筆者の妄想を読んでますます(なんの典拠も示せない空想に過ぎないけれど)、やはり鏡花は『黒衣の僧』の翻訳書を読んでいて、なにかしらの強い印象を心に刻んでいたのではないかという思いを強くした。


 ▶()う聞くと、(ただ)その二人立並んだ折のみでない。二人を別々に離しても、円髷(まるまげ)の女には円髷の女、銀杏返(いちょうがえし)の女には銀杏返の女が、(ほか)一体(ひとつ)ずつ影のように――色あり縞ある――影のように、一人ずつ附いて並んで、……いや、二人、三人、五人、七人、おなじようなのが、ふら〳〵と並んで見えるように聞き取られて、何となく悚然(ぞっと)した。◀(『甲乙』二)


 同じような怪異増殖の恐怖は、『黒衣の僧』でも描かれている。


 ▶いまから千年前、どこかシリアか、アラビアのあたりの砂漠を、黒衣の僧が歩いていたんだそうです……ところが、その僧の歩いていた場所から数マイルはなれたところで、湖の上をゆっくりと渡って行くもう一人の黒衣の僧を漁師たちは見たんですよ。つまり、この二番目の僧は蜃気楼なんです。……その蜃気楼が生まれ、さらにそれからまた一つ生まれる、というわけで、黒衣の僧の姿は一つの大気層から他の大気層へと、はてしなく伝わって行ったんです。◀(チェーホフ『黒衣の僧』原卓也訳)



 以下、にわか仕込みの豆知識。

 タイトルの『甲乙』は、時間や方位を表すのに使われた十干(じっかん)の甲と乙で、甲=木の兄(きのえ)、乙=木の弟(きのと)の意。


 知らなければわけがわからないのだが、十干は、()()(つち)()(みず)にそれぞれ「の()」と「の()」をくっつけた十のことばに、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の字を当てるという、単純なルールからなっている。これに子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の十二支を順々に組みあわせて12と10の最小公倍数である60に分割された時間や方位を表した。

 今でもよく言われる「丙午(ひのえうま)」の場合、元の字に戻すと「()()(うま)」ということになる。また、六十歳を還暦というのは、十干と干支を組み合わせた(こよみ)を元に(かえ)すことを表している。

 大正十三年は甲子(きのえね)、大正十四年は乙丑(きのとうし)にあたるので、甲乙(きのえきのと)は、掲載誌の新年号にふさわしく暦の更新を、復興の感慨を込めて言祝(ことほ)ぐ命名なのだろう。


 今となっては謎めいて思えるタイトルについてはいろいろと考えてみたのだが、結局のところ、お正月だからせめて題名だけでもめでたくしないと目次の体裁が損なわれるからという単純な配慮から思い付かれたのではないか。……何を馬鹿な、そんなはずがあるかと思われる方がいるかもしれないが、鏡花は掲載媒体を意識して、発売の時候に内容をマッチさせることに気を遣った作家で、『芍薬の歌』の連載では作中の季節をできるだけ雑誌発売時のそれに合わせようとしたのだし、「新春の読みものだからといって、暢気(のんき)らしい」(『若葉のうち』)などというメタな独白を描写中に挿入していたりもする。

 結果的に「きのえきのと」は、小説の設定年と発表年を示し、かつ「木の兄」と「木の弟」として対になって現れる怪異を暗示しすることで、なんとなく内容を匂わせる題名にはなっている。


 ここでは表示できないが、『甲乙』は、タイトルの下にその読み方が、角書(つのがき)が下に付くようなかたちで、

  きのえ

   きのと

 と平仮名書きされていて、鏡花が書いた三百余篇の小説中、題名の読み方が明示された唯一の例でもある。


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