鏡花読書~光籃
『光籃』(大正十三年七月)
青空文庫
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ある地方を巡業中の安来節の一座が、大入りの興業を終えた夜のこと。土地の船頭を雇って、潟で船遊びに繰り出そうとする彼らは、市内を流れる川の流れから笊で何かを掬う動作を繰り返している少女を見た。ドジョウすくい踊りのプロである一座の者たちが、黙って見過ごすべくもない。
座長は少女の色白に目を留めて、なんなら一座に加えるかという腹づもりで同行を誘う。すなおに着いてきた少女は、月影を掬っていたのだと、おかしなことを言う。
船遊びの船に乗り込むにあたって、少女が船の舳先にスッと座ったことについて、
▶実は、此は心すべき事だった。……船につくあやかしは、魔の影も、鬼火も、燃ゆる燐も、可恐き星の光も、皆、ものの先端へ来て掛るのが例だと言うから。◀
と警告する作者の語りかけで、物語は一気に怪奇の相を帯びる。
案の定、陸に戻った少女は、雨に降られて一同が駆けこんだ飯屋のなかで、笊で掬った月光を撒き散らし、
「ほゝゝ、可恐いの?」
と笑いながら、斧の形をした簪で光を刻み、壁に十七日の月を懸けてみせると姿を消した。
女神出現の奇跡を目のあたりにした一座の女たちは、少女の真似をして、斧の形の簪を髪に挿すのだが、夜になると七転八倒の痛みに襲われる。ただ一人、何も芸のない無能な年若の娘だけには何事も起こらず、簪が放つ光にきらきらと飾られた。
〇
ちょっと恐い、けれども破格に美しいイメージを伴った、不思議な民話のような短い物語。
『泉鏡花事典』では謎めいた結末を「民話の末子幸運譚を思わせる」と解説している。
無垢なものが禍を退ける先例は鏡花小説において、たとえば『高野聖』の次郎は、白痴であるがゆえに魔の女の術を免れ、亭主としてかしずかれている。作者の真意を読みとりがたいこの小品の結末は、当時大流行したらしい安来節に辟易した鏡花が、その俗っぽさに聖なる無垢を対比させてはどうかと、ふと思いついて書かれたのかもしれない。
あるいは最後に特権を得た無能な娘は、寒山には拾得、蝦蟇仙人には鉄拐仙人と、賤が貴に転じる神仙キャラクターたちがペアで語られがちなことに習って、月を掬う女神から相方候補として選ばれたのではないか、ちょうど『きぬぎぬ川』のような女神選抜の物語につながりそうにも思えるのだし……などと、想像がふくらむ。




