鏡花読書~夫人利生記
『夫人利生記』(大正十三年七月)
青空文庫
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タイトルを砕くと、「摩耶夫人にまつわる不思議な出来事や御利益を記した話」とでも言えばいいか。摩耶夫人は仏陀の母で、少年の頃から摩耶夫人像に亡き母の姿を重ねていた鏡花にとっての、生涯にわたる憧憬の対象だった。
先にアップした『傘』(大13)の読書日記で「関東大震災(大正十二年九月一日)から二ヶ月ほど経った同年十一月に、鏡花はすず夫人とともに金沢に帰郷している。目的は寺院詣でと、仏師に摩耶夫人像の製作を依頼するためだった」と書いた旅中の出来事が、主な題材になっている。
『夫人利生記』の主人公、樹島(あきらかに鏡花自身)の行動をまとめると、
b'. 清澄山西養寺(作中では梅鉢寺)鐘楼下の洗い場……美人に遭遇。
a. 妙具山全性寺……鏡花の母、鈴の生家である中田家の墓所。
b. アヴァンとして置かれた b' の続き……美人に c の場所を訊ねる。
c. 卯辰山善妙寺(作中では蓮行寺)……摩耶夫人像のある寺。
d. 仏師の家……おそらくb の近辺。摩耶夫人像の製作を依頼する。
e. 東京の自宅、番町の家……摩耶夫人像が届く。
と、a から d が金沢での移動範囲となる。
a から c は地図上の直線距離でせいぜい 1km あまり。苦もなくできたはずの移動を描くにあたって、叙述の順序に手を加え、それぞれの場所に神秘的な繋がりをもたせることで、全体を朦朧とした空気に包んでみせる。いかにも鏡花らしい。
ちなみに、鏡花の摩耶夫人憧憬の例としてよく引かれる随筆『一景話題~夫人堂』(明44)の後半に描かれた、十歳ばかりの頃に父と共に見た石川県松任市の行善寺の夫人像は、c の夫人像とは別のものである。
青空文庫『一景話題』
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幼いころから親しんだ善妙寺の摩耶夫人像を拝観することは、鏡花の旅の目的の一つであったに違いないのだが、肝心の夫人像との再会の描写は避けられている。そのことについては末尾の文で、「(夫人像の)面影の影らしい影をさえ、描き得ない拙さを、恥じなければならない」と弁明しているのだが、十三年前に書いた『一景話題』ですでにその面影を写しているわけで、実際には言い訳になっていない。
『夫人利生記』では、いわば「本地垂迹」の「本地」に当たるような摩耶夫人像そのものを描く非礼を畏れて、摩耶夫人の導きによって現れた女人の姿や奇跡的な出来事、つまり「垂迹」や「利生」によってその尊さを示すことを、手法として意識的に選択したのだろう。
〇
多くの読者にとっては自分とは直接関わりのない信仰の話であって、あらすじから興味を持つ人は少ないと思える。
ところが実際に読んでみると、『夫人利生記』の「利生」にあたる、鏡花自身が摩耶夫人の慈悲の顕現だとみなしたエピソードの数々が、実に活き活きとして面白い。鐘楼下の洗い場で出会い、不思議な写真に再びその姿を見いだした若い女をめぐる数奇な偶然や、善妙寺の御堂に顕れた正体不明の美女、幼い頃に経験した雛人形の神秘だとか。雛の話のついでに語られる、作者自身もいまだに正体がわからない、子供たちの間で流行ったおもちゃの話には微笑を禁じ得ない。
それらすべては(もちろんフィクションを多分に交えてはいるのだろうが)、冷めた目で観察・調査をすれば、おそらくは神秘でも何でもない、あるいはたんなる偶然や錯覚だとみなせる事柄なのだけれど、何事も摩耶夫人の裳裾の下にある出来事だと信じればこそ、有機的な繋がりを持った、自分自身と緊密にかかわる物語となる。これが信仰というものの、初源的なありかたなのだろう。
鏡花が幼少時から抱きつづけ、『夫人利生記』で典型的に示した、このような信仰に伴う素朴な心の作用は、摩耶夫人信仰とは無関係な、いや信仰そのものとも関わりがない、私を含めた多くの読者にとっても、特殊を突き詰めれば普遍につながる一例として、身につまされるものとして受容できるのではないか。
そんな我々でも、仕事、家庭、色恋、趣味、芸術、研究、政治信条、利殖、飲食、ペット、ギャンブル、推し活……などなど、なんらかのかたちで人生を理由のある物語とするための軸を持ち、何事もそれに関連づけ、それをよすがにして生きているのだから。




