鏡花読書~火のいたづら
『火のいたづら』(大正十三年四月)
舞台は、ある雪国の町にある雑貨屋。椅子に座った客にコップを持たせるような、簡素な酒店も兼ねた店で、お辻という若い娘が切り盛りしつつ弟を養っている。節分の夜、その弟もどこかに泊まりに出て、娘は一人である。
酒店の客は、若い旅人が一人。肌寒い店内で、物慣れない様子の彼が酒の肴に手をつけたとき、岩膜という怪しげな僧がやってきた。僧とはいっても占いやまじないを業とする半俗の修験者のような親仁である。
若い旅人が耳にした会話によれば、岩膜はかねてからお辻に、この土地には火の呪いがかかっていると言い含めてきたらしい。最初の住人は節分の夜に三年続けて小火を出し、四年目に大火に巻きこまれて家は全焼した。新しく立て直した現在のこの家に住んだ二家族も安泰ではなかったらしい。三代目の住人であるお辻にも、節分の夜にはきっと火難がふりかかると、岩膜はおどしをかけている。
不安に苛まれたお辻は、寒さを忍びながら家中の火を控え、猫がくわえてきたらしき渋団扇すら火を呼ぶものに思えて町の辻に捨てたほどだった。ところがなんとその団扇は今、岩膜の手にある。ここに来る道すがら、団扇に込められた因果を眼力で見抜いて拾ってきたのだという。岩膜は団扇で煽りながらお辻を責めたて、今夜は自分を泊めて体を差し出せば火を鎮めてやると脅迫する。お辻の母親の代から執着し続けた妖僧が、ついに娘の血肉を食らおうと、やって来たのが今夜なのだった。
そのとき、「姐さん、水を一杯」と、それまで黙って聞いていた若い客が口を挟んだ。
若い男は、お辻が汲んできた井戸水で占いの真似事をしてその場を煙に巻くと、岩膜の正体は一介の煙管職人だと正体を暴いてみせる。青年は誰あろう、この土地でかつて全焼した家の息子、工学士の立川淳吉だった。虚を突かれた岩膜は、修行を重ねた執着の行力を見せてやると捨て台詞を吐いて店を去る。
淳吉は、彼のみが知る節分の火難の秘密をお辻に打ち明ける。呪いは彼の亡き母の言動が引き金となったもので、確かに存在する。自分が今夜訪れたのも、現在の住人の安否を確かめるためだった。呪いに乗じて火難を呼びこもうとする岩膜の術をやり過ごすには、ここに立て籠もって朝を迎えるしかない、と。
家の前に居座って渋団扇を扇ぎ、火気の念を送り続ける岩膜と、極寒に震えながら火の気を避けて籠城する若い二人との、夜を徹した対決が始まる。……
〇
ずいぶん俗っぽい調子であらすじを書いたけれど、実際のところ『火のいたづら』は、鏡花にしてはかなり割り切ったエンタメ寄りの作品だと思う。
夢幻能の形式に準拠した全盛期の鏡花作品は、中盤まではなかなかストーリーが進まないせいで初読者を戸惑わせるのだが、本作では全体(32ページ)の四分の三のわずかな紙幅で、飛躍に富んだ上記の物語が一気に展開する。残りの四分の一にあたる終章には、気の利いた脱出劇と、雪に炎が映える耽美なイメージが待ち構えていて、読後感も悪くはない。
過去作品を知っていれば、『妖僧記』や『政談十二社』に登場するストーカー的な怪僧・修験者のイメージや、『鶯花径』『町双六』『五本松』などで描かれた大火のエピソードを再活用した、常套のつぎはぎのような作りにも思える。けれども既知の素材が、すっきりとした文体のウェルメイド劇(あくまでも鏡花流の、オカルトティックなそれではあるが)に仕立て直されたという新味がある。複雑な構成や難解な修辞がなくても鏡花小説は充分に面白いと、当たり前のことを再認識させられた気がした。
こんな読みやすい、キャラクター小説めいた鏡花小説があってもいい。
〇
怪談映画でも怪奇映画でもなく、オカルト映画だと銘打って日本で初めて作られた映画は、1976年に公開された『妖婆』だった(監督:今井正、脚本:水木洋子)。原作は芥川龍之介の同名小説(大正八年作)だが、この『火のいたづら』あたりにもう少し知名度があれば、そういう類いの映画の原作として脚色されていたのかもしれない、なんて勝手な想像を逞しくしてしまう。
おそらくはこの頃の鏡花は、昔からの崇拝者以外からはあまり注目されない作家になっていて、新作の短篇などは同時代の小説として世の記憶に残ることも少なかったのではないか。




