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こりすま日記  作者: らいどん


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鏡花読書~駒の話、小春の狐

(こま)の話』(大正十三年一月)


 鼠をよく捕ると近所で評判の、駒という雌の白猫の話。

可厭(いや)な病がはじまっ」た頃とあり、直近にコレラが流行したのは大正九年なのだが、大正六年作の『幻の絵馬』にも駒という猫は登場するのだから、それ以前の明治三十五年に流行した頃の思い出ではないか。

 基本的に猫のことを化け物の一種だと思っている鏡花が、ある程度の距離を置きながら、猫特有の優雅な姿態や気高さ、賢さを描いているのが珍しい。


 鼠を狙っていた駒に女中が声をかけると、


 ▶駒が前脚で、軽う一寸(ちょっと)(おさ)える、(あながま)と――其処(そこ)で、圧えて置いてから、(ひげ)(さば)いて()う口を開ける……可恐(こわ)くないようにニャーと言いそうで、(しか)(かす)かな声さえも立てないのは、(来て居ますが……静かになさい――騒ぐと鼠が参りませぬから、)と言うのだそうで。◀


 と、駒の挙動は、まるで御殿の上臈のような口吻を想像しながら語られる。

 文中、「あながま」という意味不明のことばは、「あなかま」(あな、かまびすしい=ああ、やかましい、静かにしなさい)の誤植だろう。


 たんなるエッセイかと思わせて、駒が年増女に変化した姿を目撃する女中の話や、子供を溺愛する母猫としての姿、年老いた駒の零落、『幻の絵馬』のトーマスを思わせる猛犬との対決など、奇譚としての起伏に富んだ、楽しくもしみじみとさせる読み物になっている。



 語り手(鏡花自身)が、物音に(おび)える妻の姿を、


 ▶蝉が殻を脱いだように、いや、空蝉化(うつせみかして)為蟹蜷(がうなとな)った形で、寂しそうに怯えて居る◀


 と描写する一文に「空蝉化為蟹蜷」――セミの抜け殻がガウナになる、とある。ガウナとは、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる、毛利梅園「梅園介譜」https://dl.ndl.go.jp/pid/1286742 (39/82 左上)に、寄居蟲、つまりヤドカリのことだと書かれている。『シドニアの騎士』の奇居子(ガウナ)の名の元ネタですね。

 セミの抜け殻がガウナになるというのは、「雀海中に入って(はまぐり)となる」という句のヴァリエーションなのだろう。他にも「(きじ)、大水に入って(おほはまぐり)と成る」(『想山著聞奇集 卷の五』)など、姿の似たものならばなんでも当てはめられる句型だと思われる。物が変化することのたとえとして使うらしいが、鏡花は講釈士がよく言う軽口めかして、おどけて使っている。





『小春の狐』(大正十三年一月)


 東京から金沢に帰郷して、河北潟(かほくがた)の辺りを散策する主人公、城崎(きざき)関彌(せきや)。――例によって、鏡花自身を写したと思える男の話を、架空の友人から聞いたという(てい)で物語は語られる。

 宿の傍で(きのこ)を売る女を見かけた城崎は、子供の頃に行った茸狩りがきっかけで憧れを抱いた年上の女性のことを想い出した。茸狩りをしたいので場所を教えてほしいと、浪路(なみじ)という名の、その茸売りの女に声をかけ、連れだって小松山に向かう。ところがすでに取り尽くされたのか、茸はさっぱり見あたらなかった。

 途方に暮れた浪路が山の神に祈ったところ、ようやく穴場が見つかって、二人は嬉々として松露(しょうろ)やしめじを集めた。そこへ通りかかった茸採りのかみさんたちは、二人が採ったのは毒茸ばかりだ、狐が化けた性悪女がまた男を瞞そうとしていると罵倒する。

 かみさんたちが去ったあと、浪路は涙ながらに、城崎を喜ばせようと嘘をついた、もし彼がそれを食べるなら、自分が毒味をして死のうと思っていたと告白する。そんな浪路の髪には、こぼれた松葉がかんざしのように、奇跡的に挿さっている。彼女の姿と心の美しさを、城崎は讃えずにはいられなかった。



 同時期に発表された『傘』と同じく、久しぶりの金沢への帰郷をきっかけに書かれた短編なのだろう。

『傘』の主人公は初老の鏡花自身を彷彿とさせるが、『小春の狐』の主人公は回想とともに若返ったかのようで、まるで青年のようにヒロインと睦み合い、幼い日の恋心の再来に浸る。

 故郷の風物を語る修辞は美しく整って、茸に対する博物的な興味や、手の届かない年上の女性への思慕、可憐なヒロインへの加虐、最後に訪れる小さな奇跡、そして強引すぎる筋立てまで、何から何まで鏡花らしい短篇としてまとまっている。ファンにとっては、好編だと言わざるを得ない。


 ……けれども――これからしばらく、晩年の作品を読むつもりである身としては認めたくはないのだけれど――震災前の諸作と比べると、筋立ての強引さをねじ伏せるような熱狂をどこか欠いている。その熱狂ゆえに危うく成立していた鏡花小説がいざそれを欠いてしまうと、作者自身もわかりきっている「鏡花らしさ」の手続きを順々に踏むだけの空虚に堕ちかねない。

『小春の狐』を褒めるには……物足りなさに目をつぶる愛読者の贔屓目が必要だろう。

 最後の一文を「湖つづきの蘆中(あしなか)の静かな河を、ぬしのない小船が流れた。」と、やや誤魔化し気味の余韻を持たせながら終えるのは、どことなく芥川龍之介っぽい。


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